花冷えのする四月中旬
新正栄丸は毎日、海に出ていたが、船上に客の姿は無かった。
正栄はある一定の釣果を基準として客の受入を図っていた。
今の季節なら、旬の桜鯛が型の良い1キロ前後で1人5枚は上がらないと客に申し訳ないと思っていた。
北陸日本海の若狭湾
今年の大雪の影響により山から大量に流れ込む雪解け水は、例年を遥かに上回る量となった。
そのため、海水温はなかなか上がらず、鯛を始めとした魚の活性は鈍かった。
それでも正栄は船を出した。
新たなポイントの開拓のため船を出し、竿を下ろした。
そして、何よりも、この3人で毎日を楽しく過ごす喜びを感じたく船を出した。
女もまた、毎日、京都の家からこの漁村に足繁く通っていた。
女は最初の頃は船に酔っていたが、1週間後には船酔いも克服した。
新正栄丸の労働は、朝5時に出港し、若狭湾内の数カ所のポイントで竿を出し、午後2時には帰港するといったものであった。
客を取らない分、その日、3人が釣り上げた魚を吉田釣具店に卸し、日銭を稼いでいた。
花冷えのするこの日、釣果は少なくガシラ、小アジ、沖メバルがそれぞれ10匹ほど釣れたぐらいであった。
漁港で生簀から網で掬い、正栄と男で活き〆をし、クーラーボックスに入れ、釣具店に向かう。
「今日はどのくらいになるのかなぁ?」と女がポツリと言った。
「30匹そこらの小物ばっかりやさかい、3,000円位やないか?」と正栄が答えた。
「まぁ、福永はんの煙草代は稼げるわ!」と言い足し、正栄は笑い飛ばした。
車を運転する男もニヤリと笑った。
吉田釣具店に着くと、この仕事は自分の仕事であるかのように、女がクーラーボックスを抱え、店に入って行く。
「こんにちわ!奥さん、居ますか?」
「あらぁ、亜由ちゃん!釣れた?」
「クーラーが軽すぎて…」
「やっぱり、海水が上がらんへんからのぉ。なかなか、お客さん、乗せられへんなぁ。」
吉田の女房が女が開いたクーラーボックスから魚を仕分けた。
男と正栄が遅れて店に入り、魚の卸は女に任せ、2人は釣具コーナーに向かい、仕掛けの補充を行う。
「正栄さん、釣れ出したら生き餌よりサビキが良いかも知れませんね。」
「そうそう、船の客は数を求めるさかいサビキが主になるわ。」
「若狭湾はどんなサビキでやるんですか?」
「これこれ、この白!カワハギの皮!これや!」
「白ですか!九州も鯵釣りはカワハギの白を使ってました。同じですね!」
「針は4号~5号や!」
「大きいの来たら上がりますか?」
「3キロ以上の鯛やと飲み込んでも吐くからなぁ~、
まぁ、5本針の仕掛けやと、口で食わんでも体に針が刺さるさかい!」
「それじゃ、釣りじゃなくて、引っ掛けみたいなもんじゃないですか。」
「ええんや!客は何でも釣り上げれば喜ぶんや!」
男と正栄が釣り談義をしていると、女がニッコリ笑いながら、中に飛び込んで来た。
「4,000円になりましたよ。」と金を正栄に渡した。
「またぁ、吉田さん!こんなことしてくれはって、貰い過ぎや!」
と、正栄が吉田の女房に怒鳴った。
「ええんでぇ!沖メバルは高こう売れるさかい、気にせんといて!」と吉田の女房は相手にしなかった。
3人は車に戻り、正栄が千円づつ2人に渡した。
「ヒラメ、狙わないと良い銭にはならんわい。」と正栄が嘆くと、
「そうそう、私のヒラメ、1万円だったもんねぇ!」と女が得意気に声を上げる。
「偉そうに!死人のような顔をしとったくせに!」と正栄が揶揄う。
「うるさい!」と女が正栄に舌を出す。
男はそんな2人のやり取りを笑いながら見遣り、ハンドルを握った。
何やかんやで楽しい日々の中、
男は女の事を心配していた。
毎日、京都からここまで通うガソリン代
原価の高騰で正栄から貰う日銭では足りないだろうと思っていた。
ある日、魚を卸し終え、漁村に戻り、自分の車に戻ろうとする女に声を掛けた。
「相棒、これ足しにしろ!」
男は女に封筒を手渡した。
封筒の中には1万円入っていた。
「いいの!私、船長から貰うお金で十分なの!大丈夫!」と女は封筒を男に返し、
「師匠!、では、また明日!」と、
女はニッコリ笑いながらそう言うと車を急ぐよう発車させ、帰って行った。
男は何か…、女が心配であった。
何故、女の両親は身も知らずの者に年頃の娘を任せ切るのか?
女は何故、大学を辞めたのか?
女は京都のどの辺りに住んでいるのか?
女は何故、釣りをし出したのか?
女と知り合って1か月が経とうとしていたが、男は女の事情を何一つ聞き出せずにいた。
何よりも、自分の何処をどう気に入ったのか…その事を女に1番聞きたかった。
女の家は京都府舞鶴市にあった。
男の漁村から舞鶴・若狭湾有料道路の高速を使えば40分で着く距離ではあった。
しかし、女は小浜市の海沿いをゆっくり走るルートが好きで、倍の時間をかけて下道で通っていた。
この日も夕方に女は家に戻り着いた。
玄関を入ると直ぐに母親が顔出して、
「どうやった?今日は釣れた?」と声を掛けてくれる。
女は満面な笑みを浮かべ、船の上の話、魚の卸値等々、母親に合いの手を挟む糸間も与えず話し続ける。
母親はこんな楽しく語る娘の顔を涙を堪えて、しっかりと聞いてあげる。
女は余命1年と医者から宣告されていた。
女は子宮がんであった。
20歳の時、子宮の全摘出手術をし終えたが、既に癌は腎臓から静脈に乗り、肝臓に至り、胃にも転移していた。
女は大学を休学し、放射線治療のため1年以上入院生活を余儀なくされた。
女はステージ3まで回復すると、自分の最期が見えるよう、こう母親に頼んだ。
「お母さん、大学、辞めていいかなあ。」
「どうして、退院すれば、また行けるわよ。」
「私、好きなことしたいの。」
「好きなこと?」
「うん、海を見たいの。」
「海…」
「あのね、お母さん。私、家に戻りたい。
そしてね、海を見ながら暮らしたいの。」
「分かったわ。そうしましょう。
でも、亜由子、何故、海が出て来たの?」
「夢を見たの…
海の中で眠る夢を見たの…」
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