新正栄丸の初仕事、客乗せの日が決まった。
5月の3日、ゴールデンウィークの初日、正栄は家族客4名の予約を承諾した。
4月中旬を過ぎ、気温はここ北陸日本海でも昼間は20度近くに上昇したが、いかんせん、大雪の雪解け水がしきりに流れ込む海水温は一向に上がる気配はなく、魚影も、依然、薄い中ではあったが、正栄は、残り半月ほどの時間に期待を寄せた。
「今日から船上での役割分担を明確にする。
福永はんは、お客さんのお土産用の魚を釣ってくれ!
亜由は、お客さんの世話係や!仕掛けの準備、餌の追加、玉網係を頼む!」
この日の正栄は漁師ではなく遊漁船の営業マンのようにサービスの徹底を謳った。
男も亜由子もそれを弁え、正栄の指示に従った。
ポイントは冠島沖5キロ地点。
女が大ヒラメを釣り上げたポイントを第一候補とした。
本番さながら、新正栄丸は午前6時に漁港を出港し、乗船時間30分でポイント地点に到着した。
丁度、水平線から太陽が顔出した時分であった。
男は竿を出した。
いつものとおり隣に女が居座る。
「亜由!お客さんの時は、福永はんにべったりやとかなわんで!
ええかぁ!
3日はお客さんの側に着くんやでぇ!」
と正栄が女を冷やかした。
「分かってる!そんなこと…」と女は良い返事をしながらも、ニヤニヤと笑い、男の横顔を嬉しそうに見つめていた。
「あかんわ!言うだけ損やわ!」と正栄は頭を掻きながらも、
「ほんま、亜由子は福永はんの飼い猫のようやわ…」と2人並ぶ光景を見遣り、そう呟いた。
女はひと時も男から離れない。
いつも男の横に居座り、男の横顔を嬉しそうに見つめている。
男の竿に当たりが来ると、一心同体の如く、女も玉網を握り、構え、立ち上がる。
男がまた仕掛けを投入し、腰を据えると、女も一緒に男の横にちょこんと座る。
男も「相棒」である女の存在が自分の体の一部のように感じていた。
女が居ないと竿を出せない。そんな感覚であった。
漁村に辿り着き、前を見て、防波堤に竿を出した1ヶ月前
それから毎日、防波堤のモイカ釣りから船釣りへと場所は変われど、竿を出している間、必ず、隣に女が居た。
偶然の必然、運命的な一体感
男が女に感じたニュアンスは、
出逢うべくして出逢った存在
一緒に居ても、全く違和感なく、至極自然な接触が持てる存在
さらに言うならば、「同じ人間」と
男はそう感じていた。
男は女に分からぬよう女の姿をいつもいつも瞼に納めていた。
玉網を掬う立ち姿、か弱い腕、細い脚、小さな腰
海を見遣る横顔から、真っ白な肌、長いまつ毛、高い鼻、小さな口、薄い唇、小さな顎
そして、キャップから潮風に靡く金色掛かった黒髪
まるで東欧諸国の白人の美少女のような容姿
本当に美しく、可憐であった。
ただ、男はその女との一体感に一抹の不安を抱いていた。
この一点だけは、運命を別に区分けして欲しいと願った。
男は、女が時折見せる眼差しに不安を感じてしまった。
「遠くを見てる。瞬きすることもなく。」
「光を見てる。眉を顰めることもなく。」
「覚悟の眼差しだ。俺と一緒だ…」
男は不安気に女を見遣る。
覚悟の眼差し
何かを悟り、何かを克服しながら安堵の地へと辿り着き、今やっと、二度と戻ることのない激動の過去に哀憫の想いを馳せる眼差し
男は、今も遠く水平線を見遣る女から逃げるように瞼を閉じ、自分の憶測を打ち払おうと努めた。
すると、男の過去が遠慮なく脳裏を駆け巡った。
【嫌々ながらのお役所勤め
本当の自分を捨て、家族も捨て、腐った組織の飼い犬となり、30年も働き続けた。
その時間の大半は「仮面」を被って生きて来た。
行政組織の過敏なまでの民間準拠の後追い愚策に翻弄された。
癒着防止と言いつつ、職員の家庭状況も一切考慮しない広域異動により、40歳過ぎてからの単身赴任の生活の日々
子供の思春期に寄り添えなく、それが因果か否か、息子は首を吊り、娘は心を病んでしまった。
何一つ助けてやれなかった。
罪と罰
罰は当然として男の心と身体を蝕んだ。
うつ病の発症
10年以上、抗うつ薬で誤魔化しながら休むこなく働き続けた。
コ○ナウィルス感染
退職の2年前にコ○ナに感染し、職場は無情にも、マスコミの餌として、男を特定公表した。
その公表に異議を申した男を腐った組織は「上に物を言う粗暴な輩」と整理をした。
それはそれで良い。
それより、男は重いコ○ナ後遺症の傷を負った。
静脈血流に血栓が生じ、腎臓が悪化した。
その影響により、血圧は、上が220、下が120と甚大な数字を叩き出し、2度ほど発作を起こし、救急車で運ばれた。
MRI、CT検査も直接的な原因を掴めず、その反対解釈として、医者は男にこう言った。
「腎臓静脈の血栓による症状として、血圧に異常が出ています。
次に疑われる箇所は、腎臓に近い臓器、胆のう、膵臓です。
MRI、CTの画像から、既に胆のう下部に腫瘍が見つかりました。
ただ、今の医学では胆のうという臓器から腫瘍を取り除き、癌細胞か否かを検査することはできません。
さらに、静脈流の方向からして、胆のうの裏にある膵臓にも何かしら影響が生じているものと思われます。」と
加えて、医者は平然とこう言い切った。
「サイレントカンサー、静かなる癌、それが膵臓癌の怖さです。
癌を疑って治療しましょう。
毎月、癌マーカーの血液検査をお勧めします。」と
男は医者の勧める治療に承諾したが、それっきり病院に向かうことはなかった。
男は感じていた。
もう先が長くないことを…
何故ならば、ある夢を見るようになったからである。
そう、16歳で首を吊り自殺した息子と海釣りをする夢
男は息子が呼んでいるような気がし出した。
男は腐った役所組織に愛想を尽かし早々と退職し、そして、故郷九州に戻ることなく、息子の呼ぶ海へと向かった。
それが今いる日本海であった。
残り短い人生を好きなことをし全うしたい。
それが、この福永武という男の今のアイデンティティであった。】
同じ匂いがしたのだ。
嫌な予感がしたのだ。
男が重い瞼を開くと、その瞳は濡れていた。
男は急いで煙草を咥え、火を付けた。
すると、女が男を見て、こう言った。
「煙草を吸ってる師匠が一番格好良いよ。」と
男には見えた。
女の瞳も濡れているのが…
運命は無情な直線である。
情に流されるような曲線は決して描かない。
こうして、2本の運命の直線は、情け容赦なく、平行に延びて行くのであった。
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