――神社の戦闘の翌朝になった。
「結局、あの巫女たちから大した情報は得られなかったな」
紅葉と共に下山しながら、俺は呟く。
巫女たちから聞き出せたのは、あの少女の名前ぐらいだった。
いや、正確には少女ではなく『神』とか言っていたか。
その事実が未だに現実味を帯びないまま、俺の思考の奥でくすぶり続けていた。
「月読尊(ツクヨミノミコト)……ね。聞いたことあるか? 紅葉」
俺は隣を歩く紅葉に尋ねる。
彼女は額に指を当てて少し考え込むような仕草を見せた。
髪が頬に触れ、彼女の薄い唇が小さく動く。
「えっと。そういう名前の神様が深詠藩で信仰されている、という話は聞いたことがあります。でも、詳しくは……」
彼女の声は、竹林を吹き抜ける風に消え入りそうなほど小さい。
「だよな」
俺はため息をつく。
情報の手がかりはほとんど得られていない。
ツクヨミ……。
俺も知らない名前だ。
しかし、何か引っかかる。
まるで古い書物のページがぱらりと捲れ、忘れかけていた物語の一節が顔を覗かせるような感覚だ。
……いや、待てよ?
本当に俺は、その名前を知らないのか?
よく思い出せ。
――そうだ。
確か、日本神話で出てくる神の名前じゃなかったか?
記憶の底を探るように瞼を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、漆黒の夜空と銀色の月、そして神の語る声。
しかし、すぐに違和感が広がる。
日本とはどこの国だ?
頭の中に霧がかかったように、現実感が薄れていく。
自分がどこにいるのか、今いる世界がどこなのか、すべての境界がぼやける。
……ええっと。
ああ、そうだ。
日本とは、この世界に転移する前に俺がいた世界の国だな。
ぼんやりとした記憶の断片が、遠い夢のように蘇る。
大和連邦西部の佐京藩にある『霧隠れの里』で詳細不明の大規模な事件が発生し、俺はそれに巻き込まれた。
いや、正確には俺がその事件を起こしたのだったか?
記憶の糸を手繰るように、失われた過去を探ろうとする。
しかし、その糸は指先で簡単に切れてしまう。
とにかく、そのハプニングによって俺の記憶は失われた。
しかも、その後に桜花城の瘴気を吸収してからというもの、決断力の向上などのメリットを受けた一方で、判断力や記憶力が一時的に低下してしまうデメリットも受けている。
そんなこんなで、俺の記憶はかなり怪しげだ。
もちろん、すべての記憶を失ったわけではない。
魔法や闘気の使い方、最低限の常識などは保持している。
戦場での動きや、敵の気配を察知する方法、自然と手が動くように魔法を編む感覚はまだ残っている。
また、タイミングによって思い出したり忘れたりする事項もある。
俺が異世界から来た転移者であるという事実や、サザリアナ王国で男爵位を賜っている事実などは、タイミング次第で忘れてしまっていることもある。
まるで霧の中で手にしたものが、次の瞬間には指の隙間からこぼれ落ちてしまうように。
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