「……悪い、少し休むか?」
俺が問いかけると、紅葉はわずかに息を整えながら、小さく首を横に振った。
彼女の額には細かな汗が滲んでいるが、その瞳にはまだ確かな意思が宿っている。
「いえ、大丈夫です。ただ……」
言葉を切った紅葉は、一度深く息を吸い込み、静かに吐き出した。
そして、視線を周囲へと向ける。
鬱蒼とした木々が生い茂り、空を覆い尽くすように枝葉が重なっている。
空気は湿り気を帯び、濃密な緑の香りが漂っていた。
微かに鳥の囀りが聞こえるものの、それすらもこの静謐な森の奥深さを際立たせるだけの存在に過ぎない。
地面は柔らかく、踏みしめるたびにわずかに沈むような感触があった。
「改めて見ても、深い森ですね。知識として知っているのと、実際に見るのとでは、雲泥の差です」
「確かにそうだな。活火山があった湧火山藩や、仏閣があった那由他藩とはまた違った趣がある」
俺は周囲を見回しながら呟く。
目の前に広がるのは、無数の樹木が絡み合うように生える深い山岳地帯。
道らしい道もほとんどなく、ただ自然が圧倒的な存在感を放っている。
山の起伏も激しく、見た目以上に足元は不安定だ。
加えて、この地は妖力的に特殊な力場となっているのか、重力魔法の制御が効きにくい。
俺一人ならば強引に飛行して進むこともできるが、紅葉を連れての空中移動はリスクが大きすぎる。
それがわかっているからこそ、こうして地道に歩みを進めるしかなかった。
「確かに、ここは他の藩とは違った特色がありますね。お寺がたくさんある那由他藩に対して、深詠藩は神社がたくさんあると聞いています」
紅葉が慎重に言葉を選びながら続ける。
「前者は広く人々に浸透している一方で、後者は深い山の中で限られた人々によって信仰や伝統が守られているとか……」
「なるほど。神秘的な感じだな」
俺は軽く頷いた。
那由他藩の仏閣は町や村の近くにも点在し、人々の日常に溶け込んでいた。
だが、この深詠藩は違う。
ここに根付く信仰は、森の奥深くに隠され、選ばれた者だけが触れられるものなのだろう。
紅葉の同行は、移動速度の低下という点では若干のマイナスだ。
だが、こうして土地土地の文化や背景を解説してくれるという意味では大幅なプラスでもある。
知らぬ土地を踏みしめる際、地の知識を持つ者が傍にいるのは、思った以上に心強い。
深い山の奥には、深詠藩を支配する神社があるはずだ。
そこを武力的に屈服させれば、この藩も桜花藩の一部となる。――簡単なものだ。
俺はそんなことを考えながら、紅葉と共に歩みを進めていったのだった。
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