『……”雪”。この名前に聞き覚えはありませんか?』
「何……?」
少女の口から発せられた名前に、俺は思わず眉を顰める。
ゆき……?
雪、か……?
どこかで聞いたことがある気がする。
だが、それがどこで、どんな存在だったのかは思い出せない。
記憶の隅を探るように考えながら、俺は低く問い返す。
「……そいつがどうした?」
『貴方がこの地で人々を虐殺すれば、雪という少女は永遠に貴方になびくことはなくなります。雪は、貴方が手を汚すことを決して望まないでしょうから』
少女の声音は淡々としていた。
感情を込めているわけではない。
ただ、事実を述べるように。
だが、その言葉の持つ重みは確かだった。
「……」
俺は言葉を失う。
覚えていない女が“なびかない”と言われても、それがどうしたというのか。
俺の目的に何の影響もない。
……はずだった。
だが、なぜか、この胸の奥が妙にざわついた。
名前すら曖昧な相手なのに、その言葉がどこか引っかかる。
まるで霧に包まれた記憶の奥底で、何かが手探りでこちらを求めているような、そんな感覚だった。
『どうか約束してください。この地の人々には手を出さないと』
少女の声は透き通っていた。
しかしその静かな響きの奥には、確かな決意が宿っている。
俺の心をかすかに掻き乱す、その声音の正体は何なのか。
「……ふん。まぁいいだろう」
俺は小さく鼻を鳴らし、腕を組んだ。
誰かに指図されるのは本来気に入らない。
俺は闇を受け入れ、己の欲望に忠実に生きると決めた身だ。
それでも――なぜか、この少女の言葉には抗う気が起きなかった。
“雪”という存在。
その何かが、俺の中に残滓を落としていく。
自分の意志に従っているつもりなのに、どこか違うものに導かれている気さえした。
ここは素直に従っておくのも悪くないかもしれない。
『ありがとうございます』
少女は優雅に一礼し、再び静かに口を開く。
『お礼に、一つだけ忠告を授けましょう』
「忠告……?」
少女は薄く微笑む。
その微笑は、余裕すら感じさせるものだった。
『大和を守る十柱の中でも、私は最弱……。自分の力を過信しないことですね』
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