「そして死牙藩。ここには、俺が向かう」
俺は短く、だが確かに告げた。
空気が静まり返る。
誰も言葉を挟まない。
俺の決意が、場の全員に伝わったのだろう。
流華の傷は、正直に言えば気がかりだ。
六王獣の動向も無視できない。
だが、何よりも懸念すべきは、白夜湖に潜む“謎の豪傑”。
得体が知れぬだけに、あらゆる計算を狂わせる存在だ。
その異質な気配は、ここからでもかすかに感じ取れる。
まるで、空間そのものがわずかに歪むような、異界の門が開いているかのような圧。
真正面からぶつかれば、俺でさえどうなるか分からない。
チートで強化されたこの身体とスキルを以てしても、その気配は俺を怯ませるほどだ。
「それだと、本拠地が手薄になるけど……」
静かに、しかし核心を突くように問いかけてきたのは景春だった。
疑念ではなく、懸念の色を帯びた声だった。
「問題ないさ。お前がいるのだからな」
俺は彼女を真っ直ぐに見据える。
景春、前藩主にして、この国の内情を知る女。
彼女がこの場にいる――それ自体が、この計画を成立させる礎だ。
「私を……信じてくれるの?」
目を伏せ、わずかに揺れる睫毛の奥から、問いかけが洩れた。
彼女の瞳は、何かにすがるようでもあり、何かを試すようでもあった。
「もちろんだ。自分の女にした奴を信じなくて、何が男か」
冗談めかして言いながらも、俺の言葉には一分の揺るぎもなかった。
盲目的に信じているわけではない。
景春が藩主としての重責に耐えかねていたこと、俺に命を救われたことに恩義を感じていること、すべて承知している。
そして何より――彼女の家族が、事実上の人質であることも。
俺のチートスキルがあれば、特定の人物を傷つけることなどたやすい。
景春が裏切って藩主に返り咲いても、俺からの暗殺を常に警戒する必要がある。
自身への暗殺だけでなく、家族の暗殺までも含めて。
そんなことは不可能だ。
景春も、そのことに気づいていないはずがない。
あえて口には出さないが。
「他の者たちも、異論はないな? 翡翠湖、虚空島には援軍を。俺は、死牙藩へ向かう」
俺の声が、再び場を引き締める。
誰も異を唱えない。
皆、己の役目を悟った表情で頷いていた。
外から、冷たい風が天守閣の狭間を抜けて一陣吹き込む。
その冷気が、俺の背筋を刺すように這った。
俺が向かうは死牙藩の白夜湖。
神でも妖でもない、しかし“何か”得体の知れない存在がそこにいる。
それは――俺のチートすら呑み込むほどの、底知れぬ脅威かもしれない。
「各自、出立の準備を進めろ。健闘を祈る」
俺は焦りと不安を胸の奥に押し込み、配下を解散させる。
そのまま、ゆっくりと天守閣を後にした。
ふと立ち止まり、俺は振り返らずに、そっと空を仰いだ。
雲間に滲む薄陽が、どこか遠くの戦火を予感させる。
――この戦いの果てに、何が待っているのかは分からない。
けれど、進むしかないのだ。
風が再び、今度は少しだけ温かさを含んで、俺の背を押した。
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