「桜花藩、か……」
琉徳が呟く。
桜花藩――。
大和連邦の心臓部とも呼ばれる近麗地方、そのまた中心に位置する大藩だ。
物流の要、経済の核。
他藩から見て、喉から手が出るほどに欲しい土地だ。
侵略の小競り合いは枚挙にいとまがない。
しかし、いずれも桜花城を落とすには到底届かなかった。
粒揃いの『桜花七侍』がいることも理由の一つだが、それ以上に大きな理由がある。
桜花の歴代藩主は、物理攻撃を無効化する血統妖術を有しているのだ。
傷つけることさえままならぬ、不死身のような支配者たち。
総大将の防御力や耐久性という面では、近隣他藩と比べても軍を抜いている。
だが、幸いにして、その血統妖術は攻撃性能には欠けているとの裏情報もあった。
桜花藩は物流の要であるためか、領土的野心も控えめ。
そんなバランスの上で、近麗地方の平和は保たれ、隣接する四神地方にも影響は及んでこなかった。
そんな桜花藩が今、隠された野心を解き放つかのように、周囲の藩を飲み込もうとしている。
すでに湧火山藩、那由他藩、深詠藩は併呑されたとの情報もある。
だからこそ、琉徳は決断せざるを得なかった。
紅炎藩。
華河藩の南に位置する、火妖術に秀でた藩。
その次男に、紅乃を嫁がせることで、盤石な同盟を築こうとした。
――次期藩主としての焦り。
――そして、密かに胸の奥に巣くっていた、うどん打ちにおける紅乃への劣等感。
それらが闇の瘴気によって増幅され、肥大化し、今回の事件に繋がったのだ。
「桜花藩を始めとする他藩からの侵攻を防ぐには、力のある為政者が必要ですわ。琉徳殿の血統妖術、お見事でした。誰から見ても、次期藩主として申し分のない実力でしょう。そしてわたくしも、うどんを守るためならば助力を惜しみません。これは、わたくしの誓いです」
リーゼロッテの声は凛としていた。
その声には、炎のような情熱と、氷のような決意があった。
――うどんを、守るために。
誰が想像しただろう。
国を救う決意の中に、麺があろうとは。
琉徳は、しばし無言のままリーゼロッテを、そして紅乃を見つめた。
その瞳の奥に、どこか懐かしさが宿っていた。
かつて兄妹でうどん打ちに励んでいた、あの無邪気な日々。
小麦粉まみれになった顔で笑い合った、あの日々。
やがて、かすかに口元が緩み――苦笑いのような笑みがこぼれた。
「……はは。まさか……俺が、うどんのことでここまで泣かされるとはな」
「うどんだからこそ、です。兄さま」
紅乃は一歩、彼のそばへと歩み寄る。
その手は小さくても、彼の心を引き戻すには十分すぎる力を持っていた。
「ああ、そうだな」
その笑みは、もはや暴走していた男のものではなかった。
すべてを乗り越えた者の、穏やかな顔だった――。
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