「琉徳(りゅうとく)兄さま……」
紅乃が口を引き結ぶ。
彼女の睫毛がかすかに震え、緊張を隠しきれていない。
琉徳は讃岐家の嫡男であり、いずれ華河藩を治める立場になる男だ。
その顔立ちは紅乃と似ているものの、彼の瞳には冷徹な光が宿り、まるで鋭い刃のようだった。
そんな彼を『兄さま』と呼ぶ紅乃もまた、讃岐家の血を引く少女である。
高貴な身分でありながら、彼女がうどん屋を営むことは、領内でも知る人ぞ知る異例の出来事だった。
「いい加減、うどん作りをやめろ。やがて俺が支配するこの藩で、お前ごときのうどんが出回ることは耐えられんのだ」
琉徳の声は冷たく、その言葉には情のかけらも感じられなかった。
紅乃は何も答えない。
ただその小さな背中が、まるで波に打たれる小舟のように見えた。
店内の空気は重く、誰もが息を潜めていた。
だが、その中でも一人だけ、変わらずにうどんを啜る者がいた。
リーゼロッテだ。
彼女の箸の動きは乱れず、すすり上げた麺がつるりと唇に吸い込まれていく。
その無邪気さすら感じさせる光景に、周囲はさらに凍りついた。
「おい、貴様! 何を食べている!」
琉徳の声が飛ぶ。
その苛立ちは、場違いな平然さを見せるリーゼロッテに向けられていた。
護衛たちも彼女に視線を向け、店内の温度がさらに数度下がったように感じられる。
「はい? えっと……もちろんうどんですわ。この店のは本当においしくて、もう一か月以上も毎日のように食べ続けてますの」
リーゼロッテは箸を持ったまま、あっけらかんと答えた。
まるで琉徳の威圧感など、どこ吹く風というように。
彼女の言葉には嘘偽りがなく、その青い瞳には純粋な「おいしい」という感情が滲んでいた。
「貴様……!」
琉徳の顔には明らかな怒りの色が浮かび、その手が衣の裾を握り締めるのが見えた。
しかし、リーゼロッテはまるで気にする素振りもなく、再びうどんを口に運ぶ。
その麺が出汁を含んだまま、ふわりと湯気を上げた。
店内の時間が止まったかのように、誰もが彼女の次の一口を見守っている。
――散り散りになったタカシの仲間、『ミリオンズ』。
彼らがまだ合流できていない理由は、実に様々だ。
魔導具『共鳴水晶』が不調になる前のタイミングで仲間の無事を確認できたため、合流を急ぐ必要はないと判断した者。
大和連邦の南北に縦長の国土の北端や南端付近に飛ばされ、移動に時間を要している者。
強制転移させられた自身の無力さを恥じ、ちょうど自分に適した修行場を見つけ黙々と鍛錬を続けている者。
転移先の困窮する人々を見捨てられず、その地に留まっている者。
そして――転移先の食べ物があまりに美味しく、出立をつい後回しにしてしまっている者。
もちろん、その最後の該当者がリーゼロッテであった。
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