「あの……琉徳兄さま?」
遠慮がちに呼びかけた声は、か細く震えていた。
けれども、その声音には確かな温もりが宿っている。
様々な確執はあれども、血を分けた兄妹なのだ。
兄の豹変を見て心配するのは当然である。
しかし、その優しげな響きも、琉徳の耳には届かない。
「黙れ! お前の声など、聞きたくない!!」
雷鳴のような怒声が場を支配した。
空気が凍りつく。
誰もが息を呑み、互いの顔を見合わせる。
琉徳の怒りはもはや自制の効かない域に達していた。
それは理性を失った獣の咆哮だった。
琉徳の目は血走り、荒い息遣いが胸を上下させる。
拳を握り締め、爪が手のひらに食い込むほどだった。
だが、何かを言い足すことなく、彼は険しい顔のまま踵を返す。
「……ちっ!!」
琉徳は大きな舌打ちをすると、そのまま無言で会場を立ち去る。
その背には悔しさと、隠しきれない負の感情がにじんでいた。
琉徳が去っても、しばらくの間、張り詰めていた空気が会場に残る。
誰もが琉徳の余韻を引きずるように沈黙していた。
しかしやがて、ふっと小さな息が漏れた。
「いやぁ、大したもんだ。あれほどの具材を使ったうどんを打ち負かすとは」
誰かが呟く。
それを合図にしたかのように、ぽつりぽつりと笑いがこぼれ始める。
「やっぱり紅乃ちゃんのうどんが一番だよ。これからも変わらず食わせてくれよ」
店の常連たちが笑いながら声をかける。
少し前まで張り詰めていた空気が嘘のように、場は和やかなものへと変わっていった。
紅乃は、そっと目を伏せる。
そして、深く息を吸い込み、静かに頷いた。
「……はい。これからも、変わらずに」
そう言った彼女の表情は、どこか晴れやかだった。
ほんのわずかだが、肩の力が抜けたように見える。
だが、会場の隅で一人だけ、まだ不満そうな顔をしている者がいた。
リーゼロッテである。
「なんだか、決着が曖昧ですわね」
彼女はぷくっと頬を膨らませ、不満げに丼を指差す。
その仕草は可愛らしくもあるが、彼女なりの真剣さがにじんでいた。
「結局、正式に勝負の結果は出ていませんの。でも、これほど美味しいうどんを食べた以上、わたくしが審査員としてしっかりと宣言いたしますわ」
そう言って、すっと立ち上がる。
堂々と胸を張り、紅乃の方へ向き直ると、凛とした声で高らかに告げた。
「紅乃さんのうどんの勝利ですわ!」
その瞬間、会場の空気が一変した。
どっと湧き上がる歓声。
笑いながら拍手をする者、盃を掲げる者、興奮のあまり叫ぶ者――会場は一気に活気づいた。
「おい、勝負は終わりだろ? なら、俺も一杯頼むぞ!」
「私も!」
「俺も!」
次々と注文が飛び交い、会場の熱気が一層高まった。
紅乃は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに「はい!」と元気よく返事をし、手際よく鍋へと向かう。
その背筋はまっすぐで、迷いのない動きには、まるで自分の居場所を確かめたかのような確信があった。
湯気の向こうに浮かぶ彼女の姿は、どこか誇らしげにさえ見える。
そんな彼女の背中を見ながら、リーゼロッテは満足そうに微笑んだ。
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