「俺は……俺は……」
琉徳が己の行為を悔いる。
そのとき、ふと周囲からざわめきが聞こえてきた。
風が一瞬、空気の匂いを運んできた。
ただの蒸気ではない。
温かくて、懐かしくて、心がほぐれる匂い。
「くんくん、いい香り……」
「あっ、紅乃様のうどんだ!」
「ご無事だったのね、よかった……!」
「いつの間にあんなご用意を? もう行列ができているじゃないか!」
声は次々と重なり、どこか嬉しさを押し殺したような震えを孕んでいた。
琉徳は視線を向ける。
広場の端――そこに、紅乃が笑顔で立っていた。
彼女の隣には、蒸気を立てる大鍋と、振る舞われる出来立てのうどん。
湯気は陽光を受けて白く揺れ、まるで希望そのもののように立ち昇っていた。
紅乃は、お玉を手に、慣れた手つきで丼にうどんをよそう。
「はい、あなたにはネギ付きね」
「お代わり? ふふ、当然、何杯でも!」
民衆は次々と集まり、丼を手に笑顔を交わしていた。
誰かが涙をこぼしながら麺をすする。
誰かが、ただ黙って丼を握りしめていた。
その光景は、平和の形をしていた。
「……あれは……紅乃……!? 腕は……大丈夫なのか……!?」
琉徳の声は掠れ、確信よりも祈りのようだった。
彼の顔に、驚愕と安堵が同時に走った。
まるで長い夜を越え、朝日に出会った旅人のように。
リーゼロッテは小さく微笑み、そっと告げた。
「闇討ちの件、わたくしが一計を案じましたの。わたくしの水魔法で偽物の腕を作り、彼女には負傷した演技をお願いしていました。あなたの本当の心に、届いてほしかったので」
「な……っ!?」
琉徳の膝が崩れた。
地面に落ちる音は、彼の心が砕けた音のようだった。
両手で顔を覆い、嗚咽が漏れる。
だが、それは後悔と共に、救われた者の涙だった。
「……俺は……許されないことをした……。紅乃だけじゃない。民も、うどんそのものも……俺の手で、滅ぼすところだったんだ……!」
拳が土を叩く。
乾いた音が、広場の片隅に小さく響いた。
リーゼロッテはただ、静かに見つめていた。
そのまなざしには、同情も哀れみもなかった。
ただ、赦しだけがあった。
やがて琉徳は立ち上がり、ふらふらとした足取りで広場の中心へ進む。
顔を上げたその目は、すでに過去の琉徳ではなかった。
民衆の前で、深々と頭を下げた。
「皆の者……俺は、次期藩主の座を辞す! 紅乃こそが、真に華河藩を導く者だ……! 紅乃とのうどん対決、そして璃世殿との果たし合いが、それを証明した……!」
だが――。
その言葉を遮ったのは、紅乃の張りのある声だった。
「兄さま、そんなのダメです!」
民衆が息を呑む中、彼女は一歩、琉徳の前へ進み出る。
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