白夜湖(びゃくやこ)は、眠らない。
蒼白い光が、まるで薄い霧のように湖面を覆い尽くしていた。
太陽でも月でもない、名状しがたい輝きが大気に漂い、時の感覚を曖昧にする。
特殊な妖力場とされるその地には、常識の尺度が通用しない。
季節も、時間も、生命の営みすらも、この湖の前では沈黙を強いられる。
死牙藩(しがはん)の半分をも覆うその巨大な湖には、常人の足は向かない。
誰もが口をつぐみ、目を逸らす。
それでも噂だけは風のように滑るように人々の耳へと忍び込んでいた。
――白夜湖には強力無比の妖獣が棲む。
――己の肉体を喰らい、力を極めし者たちの墓場。
誰が最初にそう言ったのかは定かでない。
だが、その言葉にはどこか、決して根も葉もないとは言い切れぬ重さがあった。
恐怖が生む伝承は、時として真実よりも重苦しい。
「……ふむ」
そんな場所に、ひとりの少女が足を踏み入れる。
白夜湖の北東部――それは人の手の入らぬ僻地であり、湖の輪郭がいびつに入り組んでいる一帯だった。
自然のままに削られたその地形は、無数の小さな入江や浅瀬を生み出している。
「……静かですね。獣の息づかいさえ聞こえません」
少女はぽつりと呟く。
その声さえも、淡い光に吸い込まれていくようだった。
彼女は肩に担いでいた大槌をゆっくりと地面に下ろす。
鉄と木でできたその巨大な武具は、見る者の目に重力の存在を思い出させる迫力を持っていた。
少女の身長は、常人の胸あたりまでしかない。
だが、その小柄な背に不釣り合いな武器を背負う様は、異様であると同時にどこか神秘的ですらあった。
少し日焼けした褐色の肌には、日々の鍛錬の跡。
ミディアム丈の緑髪は旅路の中でも程よく手入れされ、その色と呼応するように瞳もまた鮮やかな緑をしている。
だが、その瞳の奥には、年齢に見合わぬ鋭さと覚悟が潜んでいた。
生まれながらにして怪力を宿し、時として鋼をも砕く手を持つ種族――ドワーフ。
鍛冶と戦いに生きる者たちの血を、彼女も受け継いでいた。
少女の名はミティ。
サザリアナ王国のガロル村で育った彼女は、数奇な運命に翻弄されてきた。
奴隷として生きる道を強いられたこともあった。
だが、タカシの手によって奴隷身分から解き放たれ、彼の妻となった。
それは、ただの解放ではない。
彼女自身が選び、掴み取った絆だった。
ミティは家庭に収まることなく、鍛冶師としての才を磨きつつ、冒険者としても活躍し続けた。
貴族になったタカシを助けるべく、剛腕を用いて土木作業に従事することもあった。
彼女の力と技術は、冒険者パーティ『ミリオンズ』、ひいてはタカシ=ハイブリッジ男爵家にとって欠かせぬ存在となっている。
そんな彼女は、今この地で、別の名を名乗っていた。
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