その後、リーゼロッテは路地を一瞥し、傷ついた紅乃へと近づいた。
足元の石畳には、黒く滲む血の跡。
夜気がわずかに揺れ、冷たい風がその香りを運んでいく。
リーゼロッテはその光景を見下ろしながら、一瞬だけ瞳を細めた。
だが、すぐに気持ちを切り替え、優雅な仕草で歩み寄る。
「紅乃さん……無事ですか?」
優しく、それでいて確信に満ちた声。
どこか、すでに結果を知っている者の余裕があった。
紅乃は息を整えながら、小さく頷く。
痛みを押し殺しながらも、かすかな微笑を浮かべて。
「はい。璃世さんが対策してくださったおかげで、無事です」
彼女の腕は――無事だった。
着物の袖口から覗く肌は白く、傷ひとつない。
確かに、先ほどまで紅乃の右腕は刀で深く斬られたはずだった。
だが、実は斬られたのは彼女の腕ではなかった。
リーゼロッテが事前に水魔法で作り出していた、精巧な偽の腕。
透明な水が形を保ったそれは、わずかな魔力の流れによって本物そっくりに質感を変え、斬りつけても見破られないほど巧妙に仕込まれていた。
血糊まで用意しておいたため、偽装は完璧。
夜闇も相まって、その違和感を見抜くことはまず不可能だっただろう。
それでも斬撃の衝撃は紅乃の肩口に間接的なダメージを与えて彼女を苦しめたのだが、その苦悶の表情がさらに傷の信憑性を増すことになった。
リーゼロッテはふっと小さく息を吐く。
安堵とも、あるいは計画どおりにことが進んだ満足ともとれる表情を浮かべながら、そっと紅乃の肩を支えた。
「無事で良かったですわ」
その言葉には、確かに温かな安堵が滲んでいた。
紅乃もまた、微笑む。
「これなら、明日からもうどんを作れます。夜が明けたら、さっそくお礼にうどんをごちそうしますね」
その一言に、リーゼロッテは瞬きをした。
――そして、ふっと眉を寄せる。
「それはいけません。紅乃さんの無事を知れば、彼らはまた動き出すでしょう」
紅乃の表情がわずかに曇る。
「ですが……」
「紅乃さんは負傷したことにしましょう。そうすれば、彼らの目は余所者のわたくしに向かうはず」
「それでは、璃世さんに危険が及んでしまいます」
不安が滲む紅乃の声。
しかし、リーゼロッテは揺らがなかった。
「受けて立ちますわ。……いえ、むしろこちらから果たし合いを申し込むのもいいですわね」
その言葉とともに、彼女の蒼い瞳が鋭く燃え立つ。
まるで凍てついた炎のように、冷たく、そして激しく。
「あなたを傷つけるなんて、許しませんわ。美味しいうどんを愚弄する者は、誰であろうと地獄に叩き落とします!」
それは、冗談ではなかった。
リーゼロッテの決意が、静かに夜気を震わせる。
紅乃はしばらく彼女を見つめ――そして、静かに目を閉じたのだった。
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