「さらに悪いことは畳み掛けてくる。紅炎藩を守護する神が……他の地へ旅立とうとしているようなのだ」
低く絞り出すような侍の声は、かすかに震えていた。
神――この地に根ざし、藩を守護してきた存在。
その絶対的な庇護が揺らぐという事態は、単なる一つの神話の逸脱ではなく、藩そのものの存在基盤を揺るがしかねない。
「へぇ? そんなこと、あるの?」
ユナの問いは素朴で、同時に鋭い。
彼女は神を信じる側の人間ではない。
だが、その“常識外れ”を嗅ぎ取る勘には長けていた。
「ない。いや、ないはずだった。試練である程度の力を見せた者には、加護をくださる。試練を見事に突破した者には、神の分体を遣わていただけることもある。だが、神そのものがこの地を離れるなど、聞いたことがない……」
侍の声は落ち着いていたが、その底に澱のように沈む動揺は隠しきれなかった。
言葉の節々から滲み出るのは、理から外れた現実への困惑と、揺らぎ始めた信仰の残滓。
神はそこに在るべき存在――揺るがぬ常在の柱であり、揺るぎなき加護の象徴だった。
その存在が「居なくなる」など、思考の外にあったはずだ。
神話の終焉か、それとも世界を塗り替える新たな災厄の兆しか――。
侍の胸中を吹きすぎる風は冷たく、見えざる何かが遠くで蠢いているような不気味さがあった。
「ふーん……」
淡々とした一言が、その緊張感をわずかに打ち消す。
けれど、その気の抜けたような相槌の裏に、ユナの瞳は鋭い光を宿していた。
観察する者の眼差し。
彼女は、言葉の背後にある事象の歪みを探っていた。
「神官たちの分析によると、旅立とうとしている先は桜花藩だ。あの地を乱す新藩主の男に鉄槌を下されるのであれば、我らとしてはありがたいことだが……。桜花藩から来た商人の話によると、新藩主は強力な『火妖術使い』らしい。旧藩主を打倒したその日の夜、城下町の上空を炎で染めてみせたと……」
「……」
「それほどの火妖術使いは、この紅炎藩にもおらぬ。ひょっとすると、その者に試練を与えるために神は旅立とうとされているのやもしれぬのだ」
その声は重く、鋭く、場の空気をわずかに震わせた。
まるで、その男の力の残滓がここにも熱を残しているかのように。
力の象徴としての「炎」。
それをもって上空を焦がすなど、ただの見せしめか、威嚇か、それとも何かを焼き払うためだったのか――。
「上空を炎で……ねぇ」
ユナが低く呟いた。
だがその口調は、驚きではなく、思索の底から漏れたものであった。
ミリオンズ――そのパーティには多数の魔法使いが在籍している。
中でも火魔法は使い手が多い。
タカシ、ユナ、そしてマリア。
男はタカシのみ。
だが、彼は心優しく、他者を傷つけることに消極的だった。
ユナの眉がわずかに寄る。
桜花藩の新藩主……もしそれがタカシであるなら、状況は大きく変わる。
しかし、彼が旧藩主を討ち倒し、力を誇示するような炎をもってその即位を飾ったなど――にわかには信じ難い。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!