雪が謎の存在と邂逅している頃――
「……ここが翡翠湖か」
とある王女は近麗地方西部の翡翠湖に辿り着いていた。
いや、正確には『着いた』というより『連れてこられた』という方が正しいか。
彼女には複数の同行者がいた。
「べあとりくす王女殿下……くれぐれも滅多なことは……」
「ふん、言われなくとも分かっている。人質をとっている癖に、心配性なものだな」
少女が吐き捨てるように言う。
彼女の名前はベアトリクス。
サザリアナ王国の第三王女だ。
国交に関わる諸問題について抗議し交渉するべく、使節団を率いて大和連邦を訪れている。
「人質など……そのような言い方はおやめください。べあとりくす王女殿下のお連れ様方は、私どもの愛智藩でゆるりとお過ごしいただいているだけです。お互いにとってより良い未来を得るため、さらなる話し合いも必要ですしね」
ベアトリクスの同行者――その一人が言う。
サザリアナ王国の使節団メンバーではない。
同行者は『中煌地方・愛智藩』の侍たちであった。
ベアトリクスに配慮したのか、大和連邦内でも珍しい女侍たちが多くを占めている。
「ふん、よく言う。……まぁいい。それよりも、その『べあとりくす』という呼び方はやめろ。略称は伝えたはずだ」
「ですが、姫君であらせられるべあとりくす王女殿下のお名前を略してお呼びすることは……」
「同じことだ。そんな下手な発音で呼ばれたくない」
ベアトリクスが告げる。
サザリアナ王国と大和連邦の言語は異なる。
彼ら彼女らが意思疎通を行えているのは、特殊な魔道具あるいは妖具の効果だ。
しかし、そういった道具の効果は必ずしも万全ではない。
低級の道具を使用するとカタコトの会話ぐらいしかできない。
上級の道具はネイティブに話せるようになるのだが、それでも一部の専門的な語句は上手く翻訳できなかったりする。
特に、片側にとって馴染みのない人名――それも長めのものは不得手とするところであった。
「我のことは……碧蒼翔(べあと)と呼べ。良いな?」
「はっ! 承知しました、碧蒼翔王女殿下」
「……ふん」
ベアトリクスが不満そうに鼻を鳴らす。
そして、翡翠湖に視線を移した。
「それにしても……美しいな」
「ええ。翡翠湖は大和連邦でも有数の景勝地ですから。ま、『翡翠湖藩』はそれしか取り柄のない藩ですがね」
女侍の一人がそう告げる。
それを聞いて、ベアトリクスは眉をひそめた。
「他藩に対してその言い方はないんじゃないか? 緩い繋がりしか持たぬ連邦制とは聞いているが、一応は同じ国家に所属しているのだろう? お互いに敬意を持つべきだ」
「しかし、他に取り柄がないことは事実ですから。それに、世は戦国時代……。愛智藩から遠く離れている故に当面の仮想敵藩ではありませんが、いずれは我らが滅ぼす藩です。碧蒼翔王女殿下も、その方が好都合でしょう?」
「それは……そうだが……」
ベアトリクスが口ごもる。
彼女はサザリアナ王国の王女だ。
大和連邦内部での覇権争いについて、直接は関係ない。
むしろ、現状で最大派閥の『将軍派』がそのまま勢力を増していってくれた方が好都合だったりする。
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