「確かに、兄さまはうどんに取り憑かれていました。でも、それは……桜花藩から流れ込んだ瘴気のせいだって、璃世さんが教えてくれました。兄さまの本質は、変わってません!」
紅乃の声が震える。
だが、その震えは恐れではなかった。
心の奥から湧き出る、確信の熱。
それが喉を突き抜け、空気を震わせた。
「兄さまは、うどん打ちの腕こそ、ちょっとだけわたしより下手だけど……それ以外は、すごく立派で、誰よりもこの藩を想ってます。だから、兄さまじゃなきゃ駄目なのです!」
胸に手を当て、真っすぐに見つめるその瞳は、まるで曇りなき鏡だった。
嘘も、迷いも、そこには一切なかった。
「紅乃……」
琉徳が名を呼ぶ。
かすれた声だった。
呼吸が喉の奥で詰まり、言葉にならぬ想いが、ぽつりとこぼれ落ちる。
周囲にいた家臣たちや民衆が、まるで潮の満ち引きのように、ゆっくりと動き始める。
最初の一人が呟いた。
「そうだ、琉徳さまには助けられたことが何度もある」
振り返るように呟いたその言葉は、かつての記憶をたぐり寄せる鍵となった。
「俺ぁ……命を拾ってもらったんだ。冬の飢饉の時にな」
誰かが言うと、次の者が声を張り上げた。
「我々を守ってきたのはあの人だ!」
その声は、まるで胸の奥に積もっていた霜を打ち砕く雷鳴。
「紅乃さまと一緒なら、きっともっと良い華河藩になる!」
一人、また一人と、声が連なる。
それは叫びというより、魂の共鳴。
抑えきれなかった想いが、言葉となって空へと放たれていく。
その波紋は、たちまち会場全体に広がった。
まるで一つの心が共振したかのように――熱を持ち、脈打ち始めた。
琉徳の肩が震えた。
まるで凍りついていた心が、春の陽に溶かされていくかのように。
否、これは震えではない。
魂が、再び燃え始めたのだ。
「……まだ、終わってなどいなかったのか」
ぽつりと洩れた独白は、自らの奥に宿る火を認めるような響きだった。
再び顔を上げた琉徳の瞳には、かつての迷いなど微塵もなかった。
宿ったのは、ただ一つの光――誓い。
もはや退く理由も、道を見失う理由もない。
これからを、自らの足で、共に歩むと決めた者の光だった。
その横で、リーゼロッテも静かに胸に手を当てる。
氷のように整ったその顔に、やわらかな慈愛の気配が差していた。
「あなたも知っているでしょう? 桜花藩が領土を拡大させていることを」
声は静かだったが、そこに込められた警告は鋭かった。
琉徳の眉がぴくりと動いた。
その一瞬の反応に、彼の中に走った焦燥と警戒、そして責任の念が滲み出る。
「それは……もちろん把握しているが」
短く返した言葉の奥で、彼の心はすでに戦の鼓動を聞き始めていた。
その瞳の奥、灯った炎はもう消えない。
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