「蛇神様を呼んでまいります」
そう言って大神健助は、部屋を出て行く。
結果として、俺一人が、その場に取り残された。
いや、この場合『一人』ではなく『二人』と言うべきだろうか。物言わぬ死体もカウントするべきなのだろうか。
蛇心江美子の死体を前にして、俺は何をするでもなく、ただ立ち尽くすだけだった。
死体と一緒というのは薄気味悪いものであり、時の歩みが鈍いように感じてしまう。だから、かなり待たされたような気がしたが、実際には、それほど時間は経っていなかったのかもしれない。
蛇心雄太郎は、大神健助を伴わずに、一人でやって来た。
「健助が今、皆様に知らせて回っています。あと警察への連絡も、彼に任せました」
律儀に説明してから、蛇心雄太郎は、リビングの奥へと踏み込んでいく。
「いやいや御主人、ちょっと待ってください」
俺が彼を『蛇神様』と呼ぶのも変だろうから、旅館の主人という意味で『御主人』と声をかけた。
「こういう場合は、何も触らない方が良いでしょう。なるべく現場は保存しておかないと……」
そう思えばこそ、俺だって手持ち無沙汰で大人しくしていたのだ。俺は常識的な注意を述べたつもりだが、蛇心雄太郎は、首を横に振る。
「それは承知しておりますが、でも、確かめておくべきことがありますので……。ああ、やっぱり、ここにありました」
奥にある机の引き出しを開けると、中身には手を触れずに、上から指し示した。
見える位置まで俺も近づいて、そうっと覗き込む。引き出しに眠っていたのは、一本の銀色の鍵だった。
「江美子おばさんは、ここに自分の鍵を入れておく習慣でした」
それが一体どういう意味を持つのか、彼は語り始める。
「日尾木様、この部屋が施錠されていた以上、江美子おばさんを殺した犯人が、部屋の外から鍵を掛けたことになりますよね?」
「そうでしょうね。死体の位置や血の跡から考えて、彼女自身が鍵を掛けたとは思えません。つまり、犯人がやったのでしょう」
蛇心江美子の倒れている場所からでは、手を伸ばしても扉には届かない。かといって、もしも彼女が、刺された後にドアまで這って行き、自分で施錠したのであれば、もっとドア付近まで血で汚れていたはずだ。
「でも、この机にしまってあった以上、犯人が使ったのは、江美子おばさんの鍵ではありません」
「つまり御主人は、こう言いたいのですね? 犯人は一階にある合鍵を盗み出して使ったのだ、と」
「いいえ、それも違います。なぜならば……」
彼は大きく首を左右に振って、はっきりと俺の言葉を否定。それから説明を続けた。
彼の話によると。
一階で俺に合鍵を渡してくれた老人は、正田茂平といって、女中である正田フミの亭主。つまり、脚の不自由な白髪頭の男と、忍者みたいに機敏な女は――ある意味で対照的な二人は――、夫婦ということになる。
あの小部屋で二人は寝泊まりしており、正田茂平の仕事は、きっちりと合鍵を管理すること。毎朝、全ての合鍵を数えて確認の後、その中から一揃えだけを壁に掛けて、残りは予備として缶に入れてしまっておくそうだ。
蛇心雄太郎が何を言いたいのか、なんとなく俺にも理解できたが、
「でも、一日中ずっと部屋にいるわけではなく、トイレに行くとか、部屋を留守にする機会はありますよね? その隙に盗まれたのでは……」
と、可能性を提示してみる。
しかし、これも否定されてしまった。
「茂平は、あの部屋を無人にすることはありません。あの部屋で食事もしているし、風呂や便所へ行く際は、代わりにフミを鍵番にするくらいです」
二人が暮らしている部屋でもあるので、昼間でも正田フミは、女中仕事の合間に立ち寄ることがあるらしい。そうした機会に正田茂平は、一時的に番人を代わってもらい、便所などへ行く。だがそれ以外は、部屋から一歩も動かないのだという。
「あいつは几帳面な性格の男でしてね。それに『脚が悪くなった身の上なのに使ってもらっている』と、たいそう恩義を感じているようです。鍵番程度の仕事であっても、とても真面目にこなしています」
なお。
この言葉通り、この日あの小部屋が無人になった時間はないということが、後に確認されるわけだが……。
「だから日尾木様、犯人が一階にある合鍵を持ち去るのは、どう考えても不可能なのですよ」
こうも言い切られると、俺としては反論したくなってくる。何かないかと思ったところで、また別の可能性が頭に浮かんだ。
「でしたら……。江美子さんの鍵でもなく、一階にあった合鍵でもないというならば……。犯人は、かなり昔に合鍵を作っておいて、それを使ったのではないでしょうか?」
しかし、またもや俺の意見は否定されてしまう。
「残念ながら、それも無理です。一週間ほど前に赤羽夕子の姿が目撃されて以来、江美子おばさんは、すっかり怯えてしまいましてね。二、三日ごとに部屋を移り変わるようになっていました。だから古い合鍵があっても、全く役に立たないのです」
これも後になって、ここ数日の間に近隣で合鍵が作られた形跡などないことが、警察の捜査によって確認されるのだった。
「犯人には、鍵を掛けることは出来なかった……。つまりこれは、生身の人間には不可能な殺人なのです」
少し語気を荒げて、断言する蛇心雄太郎。
要するに、密室殺人というやつなのだろう。それを『生身の人間には不可能な殺人』と表現したのは、彼が赤羽夕子を――妖魔とか邪神とか呼ばれる存在を――念頭に置いていたからに違いない。
そう考えると、気味が悪くなってきた。目の前に転がっている死体よりも、蛇心雄太郎の言葉の方が不気味に思えて、ブルッと体を震わせてしまう。
そんなタイミングで、大神健助が戻ってきた。見知らぬ人々を、背後に従えながら。
「蛇神様、そして日尾木様、お待たせしました。警察の方々をお連れしました」
しかし。
この夜の警官たちは、たいした捜査はしなかった。
現場の写真を撮影したり指紋を採取したり、簡単に調べた後、死体を運び出しただけ。詳しい捜査は後日のようで、死体以外の現場の物には、ほとんど手を触れなかった。
引き出しに入っていた鍵は証拠品ということで、犯行現場となった部屋の施錠も、合鍵の方で行って……。
「もう今日は遅いので、詳しい話は明日、お伺いします。明日になれば、県警本部からも人が来るはずですし……。我々ではなく、そちらが事件を担当することになるでしょう」
そう言い残して、彼らは引き払うのだった。
翌朝。
話の通り、前夜の警官たちとは違う面々がやって来た。
芝崎警部という中年の男が、この一団の責任者らしい。顔は丸くて髪は薄く、額は頭頂部付近まで禿げ上がっている。背丈は人並みだが、あきらかに横幅は広く、特に腰回りは相当なものだ。灰色のスーツに包まれているせいか、第一印象として俺の頭に浮かんだのは、失礼ながらドブネズミのイメージだった。
犯行現場を詳しく調べた後、彼らは俺たちを大食堂へと呼び集めた。
俺と珠美さんが入っていった時。
今や三人となってしまった蛇心家の者たち――雄太郎と安江と美枝――は勢揃いしていたが、使用人は大神健助のみ。また、阪木正一と杉原好恵の姿も見えなかった。
「一郎さん、私たちが最後というわけではなさそうね」
「そうですね」
と、小声で言葉を交わしながら、俺たちも空いている席に着く。
警察の面々は、芝崎警部以外、まだ犯行現場の調査を続けていたらしい。芝崎警部一人が、蛇心家の三人と向かい合って座り、彼らから話を聞いていた。
色々と蛇心雄太郎が説明したようで、
「ふむ。すると犯人は、鍵を持っていなかったのに、鍵の掛かった部屋を出入りしたことになりますな」
眉間にしわを寄せて、芝崎警部が呟く。
表情とは裏腹に、まるで納得したかのように一つ頷いてから、彼は俺たち二人に視線を向けた。
「日尾木夫妻ですな? 一郎さんは小説家だそうですが、こういうのを推理小説では、密室殺人と呼ぶのでしょう?」
鋭い眼光で問いかけてくる。
これが挨拶代わりの第一声なのだから、変わった男なのだろう。
そう思いながら俺が黙って頷いた時、阪木正一と杉原好恵が、食堂に入ってきた。
「遅れて申し訳ないです」
「正一がモタモタしてるから……」
そんな言葉を口にする二人。だが彼らが最後ではなく、すぐ後ろから、さらに三人が続く。正田茂平とフミ、そしてもう一人は、俺が知らない男だった。
年齢は四十代の半ばくらい。角張った顔立ちが特徴的で、頭も角刈りにしている。いかにも料理人という感じの白衣を着ており、後で聞いた話によれば、その通りだった。名前は板橋卓也、材料の買い出しも含めて、彼一人で料理関連を取り仕切っているのだという。
「ああ、これで全員、揃いましたね」
ホッとしたような声の蛇心雄太郎だったが。
それを聞いた芝崎警部は、あからさまに怪訝な面持ちとなる。
「これで全員……? いやいや、少なくとも、あともう一人いるでしょう?」
「えっ? 何をおっしゃっているのやら……。『もう一人』ですって?」
今度は逆に、蛇心雄太郎の方が不思議そうな顔をする番だったが……。
「そうです。ほら、ちょっと変わった赤い服の女性がいるじゃないですか。先ほど見かけましたよ、ちょうど私たちが屋敷に入って来る時に。……四階の部屋から外を眺めていたようですが、まだ彼女、上にいるのですかな?」
彼の『ちょっと変わった赤い服』がチャイナドレスを示しているのは、聞き返すまでもなく明らかであり……。
芝崎警部の発言の意味を理解して。
その場の全員が、顔をこわばらせるのだった。
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