私の通っている大学は猫田町という、いかにも猫の多そうな名前の町にある。猫田町全体が西から東に緩やかな上り坂になっており、東側はアパートや一軒家の多い住宅街で、西側には商店街があり昼夜問わず賑わっている。私の住まいであるシェアハウス『喜劇』は、猫田駅北口から出て東に十分ほど進んだところにある。
「わかるか? 空虚になってしまった人間の虚しさを」
「それは一大事だな」
私とルームメイトの一人は『喜劇』の共用スペースにいた。ここはキッチンと座間のあるダイニングのような空間である。その他には共用のトイレや風呂、後は小さめの個室が一人一室ある。この家には、私含め四人の勤勉な学生が住んでいる。
一糸纏わぬ姿で目の前に佇んでいる男は小川 広という。生まれたての赤子の如き裸体であるが、唯一身につけている銀縁の丸メガネと大人のような立ち振舞から知的な印象を受ける。
彼を一言で説明するならば、男子校という概念を凝縮したような男、である。共学出身の人間には到底理解出来ないノリを持ち合わせており、一緒にいると話題に尽きない面白い人間である。ちなみに彼は小中高、共学である。彼が自宅では全裸、外ではサスペンダーのみという格好をしているのも、高校の頃の罰ゲームが原因らしい。脳のリソースの内三割を馬鹿なこと、七割をスケベなことに割いている為、口を開けば下品な言葉が出てきてしまう。彼は下ネタが原因で女性とお近づきになれないと考えているようで発言には気を付けているらしいが、もっと俯瞰的に、具体的には鏡の前で自己を見つめ直すことが先であろう。
要するに、常に裸体を晒し、不埒な妄想を怠らない、変態である。
変人であることを諦めたものの、変人であることが生活の中心を占めていた私は見事に途方に暮れてしまい無益で怠惰な生活をして半年、このままではいけないと発起した私は小川に事の顛末を説明し相談していた。
「小川は生きる上で大事にしていることはあるのか?」
「そうだな……。質問の意図とはずれるけど、ファンクラブは結構大事にしてるよ」
「順調か?」
「五〇人を突破したよ」
「流石だな」
小川広にはファンクラブがある。とはいえ、彼が有名人だとか優れた美貌を持っていて多くの異性に支持されているとかそういう訳では無い。彼の面目の為に一応言っておくが、異性からの人望がないだけで容姿は整っている。眼鏡から覗かせる切れ長な眼によって知的で冷ややかな人物のようだが、クシャっとなる笑顔は人懐っこい印象を受ける。そんな彼は三ヶ月前、自分のファンクラブを設立した。最初にその話を聞いた時にはそんな馬鹿なと思ったが、「アイドルにジャニーズ、俳優だって人気が出る前から自分でファンクラブを作ってるんだよ。勘違いされがちだけど、ファンが集まってファンクラブになる訳じゃない。ファンクラブをつくることで、そこで初めてファンという目に見える形で人が集まるんだよ」と言われてその時は妙に納得したのだが、今になってみるとやっぱり阿呆らしい。ただ、五〇人もの人が集まっているとなるとなかなか馬鹿に出来ない。そこらの非公認サークルとは比べ物にならないくらい多く、そんな団体の会員番号〇〇一番と名乗れることを私は誇りに思う。
「これだけの人が俺を支持してくれているってのは気持ちが良いものだけど、それと同時に皆の期待にどうやって応えようかってプレッシャーになるんだよね。まあそれが毎日大変でもあり楽しいから、俺にとっての生きがいってやつかも」
そう言って小川は微笑んだ。
「なるほどな……、参考にさせてもらうよ」
ファンクラブを作る訳にはいかないが、他者からの期待を生きがいとするのは一理あるかもしれない。一人で考えていても発意することは出来なかっただろう。自分の目標を決めるためにも、まずは他の人の精神的支柱を聞いてみるのもありかもしれない。
「ところで、新しく入った人はどんな人がいるんだ?」
「気になる? 全員男だけど」
「……五〇人もいて全員野郎か。もはや才能だな」
「同性から好かれる才能なんていらない」
「あんな活動ばっかりしているのだ。女性が入らなくても仕方がない」
小川ファンクラブは、小川が皆を招集して不定期で活動する。先日、大学の教室を一つ借りて猥談百物語を行った。それぞれ持ち寄った猥談を一つ披露する度に話をした者は服を一つ脱ぎ、全ての話が終わるとそこにはむさ苦しい光景が現れるというものだった。興味深い話ばかりだったが、中でもカバのお尻に発情するようになってしまった男の話は秀逸だった。まさか小川の実話だなんて。
「何か飲む?」
立ち上がってキッチンに行った小川は、コーヒーを飲むのかポットに水を入れていた。
「いや、そろそろ出掛ける」
黒い長ズボンのポケットにスマートフォンと財布を入れ、ワイシャツのボタンを締める。変人であることを止めた日から、基本的に外出時は黒ズボンと白いワイシャツという格好でいた。
「休日に外出なんて珍しいね。何か用事?」
「自分探しの旅をしてくる」
「今から? どこいくの?」
小川は驚いたように眼をぱちぱちさせた。
「私は今、自分を見失っている状態だといってもいい。無くしているんだよ、自分を。ならば探すしかあるまい。そこで自分探しの旅だ。しかし! 目的もなくただ観光地をふらふらとする、自分探しを装った旅行になってしまってはいけない。ではそのようなことが起きないようにするには? 簡単だ。旅の範囲をこの猫田町に絞れば観光などとうつつを抜かすこともなくなる。それだけではない! 期間は今日のみだ。どんな捜し物でも一日本気で探して見つからなかったら神隠しだと諦めるべきである。では行ってくる、日帰り自分探しの旅へ」
そういって『喜劇』を出た私は、栄えている西側に下っていくことにした。
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