息を荒げ、大教室に駆け込んだ。
急いで教室の後方に目をやると、想像通りの悪夢が広がっていた。
人、人、人、人、人。
何列にも連なった長机には、学徒が小麦の実のように密着している有様だった。
座れる場所が無い……。
日頃から席の取り合いという無用な争いごとを避けるべく、早め早めの行動を心掛けていたのだが、今日は運が悪かった。
「……コルダさん」
今にも消えかかりそうなほど弱弱しい男性の声が教室の前方から聞こえる。
振り向けば教師用の単座に箒《ほうき》のような人物が腰を下ろしていた。
床に広がるほど伸びた緑青《ろくしょう》の髪を持ち、もみあげだけは銅色に輝いていた。まるで本物の金属で出来たような美しい髪の彼だが、毛量の多さに顔は完全に埋まってしまっている。
唯一飛び出している手は日頃から食べていないのか葦《よし》のように痩せこけていた。
「あ、アエス先生。おはようございます」
「……おはようございます。もうすぐ鐘が鳴るという時間に来るだなんて、ヮタシ、コルダさんが事件事故に巻き込まれたんじゃないかと心配で心配で」
アエス先生の予感は確かに的中していた。
不良に絡まれ、あわや怪我を負わされるかもしれなかったのだ。
リベラさんが助けてくれたので事なきを得たが、結果として彼に余計な不安を煽ってしまった。
私なんかよりも、もっと自分を大切にしてほしいのに……。
「だっ、大丈夫ですよ。はははは」
「……それにしては声が震えてます。も、もしかして誰かに口止めされてたりしませんか? そ、それならヮタシがッハ、ゴホッ、ンゲホッ!」
「だ、大丈夫ですか……?」
咳き込み続けるアエス先生。しかし彼は苦しみながらも手を前方に差し出した。
“席について”の意と捉えた私は、残念ではあるがその場を後にする。
奥へ、奥へと進んでいく。
長机との間は犬でも躊躇《ちゅうちょ》するほど狭く、さらに学徒の足が散乱しているせいでなおさら困難だった。
ぽつりぽつりと点在する空席を横目に、奥へ奥へと進んでいく。
教室の席はどれも自由に座れそうだが、そこには見えない格差がある。
教師座から最前列あたりは名門出身の学徒が。
中間の数列は地元出身者の学徒が。
そして地方出身者である私が座れるのは後列と限られていた。
やっとの思いで最奥に到着する。
すると入口からは確認することも出来なかった場所に、ぽっかりと席が空いていた。
ほっと胸を撫でおろし、引いてきた鞄を椅子に乗せる。
必要な書籍・道具類を一通り出し終えたら鞄の上によじ登る。こうして初めて周りの学徒と肩を並べることができるのだ。
教室の淀んだ空気を吸い込み、ひとまずの安心感を得たところ、一時課を告げる鐘が鳴った。
「……学章の提示を願いします」
アエス先生はよろめきながら立ち上がり、よたよたと列の合間を歩いていく。背を丸めて足を引きずる様は幽霊のような不気味さがあった。
やがて最奥の席に近づいた頃、私は首にかけた学章を差し出した。
「……ありがとうございます。もし、何かあればいつでも相談してください」
「はい、どうも、ありがとうございます……」
我ながら凄くぎこちない笑顔だったと思う。
それでもアエス先生は私に対して、軽く一礼をしてくれた。
滝のように靡《なび》く髪。銅に輝く彼のもみあげには、ひしゃげた片眼鏡《かためがね》と共に金色の学章が結わえてあった。
ルパラクルの教師にしか着用が認められない特別な品。
決して錆びることのない栄光は、私にとって黄金以上の価値があった。
今はこんなでも、いつか卒業して……。
「せんせー忘れちゃいました」
確認も折り返しに差し掛かった頃、一人の学徒が声を上げる。
「……では取りに戻ってください、アランさん」
「僕も!」
「わっ、私も……」
「自分も」
「あ、俺も忘れてたわ」
「……ジャックさんにソフィアさん、エンツォさんに……あぁ、それにゲルト、貴方まで。単に忘れてしまっただけですか? もし無くしてしまったのであれば、私が買い与え――」
「――うるせぇなぁ、アンタは俺の母親かよ」
「……ゲールも同じことを言ってました」
「誰だよソイツ」
「……あなたから数えて五代前の教え子です。その性格はもはや伝統なのでしょうか。他に忘れた人はいますか?」
教室を見渡すアエス先生。するとあと10人ほどが悪びれる様子で手を挙げていた。
「……分かりました。今回はっ……ふぅ。特例です」
幽霊の徘徊、もとい確認が済んだアエス先生はやっとの思いで教師座へ腰を下ろす。教室内を一周するだけの僅かな距離にも関わらず、彼の呼吸は乱れていた。
「……では復習から始めましょう。前回は役立つ魔法を扱いましたね。重い荷物を持つ魔法に、壊れた物を修復する魔法」
パラパラと本を捲《めく》り始める。
声と言葉に触発され、頭の中では授業の光景が鮮明に蘇る。特に“修繕の魔法”に至っては、今朝の割ってしまったコップに早速使ってみた。
結果的には失敗してしまったが、もっと想像力を働かせれば、きっと成功するに違いない。
「……あぁ、忘れ物を無くす方法もありましたね。えっと、自動で戻るよう私物を魔具化するやり方ですか。これだけ学章の不所持が目立つと、今度から導入することも視野に入れなければいけませんね……」
項垂《うなだ》れながら話すアエス先生。しかし私の胸中には一筋の光が差し込んでいた。
「あ、あの! 方向音痴を治す魔法はありますか!」
想像以上に声が大きかったのか、周りの学徒が一斉に顔を向ける。中には私の顔を見るなりクスクスと笑い始める人もいた。
あぁ、またやってしまったぁ……。
後悔するも取り返しがつかない。今は早く話題が流れるよう、煮え立った顔を両手で隠す他なかった。
「……大丈夫ですよ、コルダさん。誰しも道は迷うものです。しかし残念ながら、精神や性格などに干渉する魔法は今日《こんにち》に至っても安全性が確保されていません。オットーさん、その理由は分かりますか?」
「えっと、形が無い、から?」
「……その通り。実例を見てみましょう。『失敗大例』を出してください。初期年代前期[改変魔法・内面]の項目8ページ目を開いてください」
赤面する顔を隠しつつ、机の上に積まれた数冊の中から任意の本を抜き取り、該当するページを開く。そこにはベッドに横たわる青年の精密画が描かれていた。頬は痩せこけ、視線は定まらず、口は半開き。明らかに正常とは言えない容貌だった。右下の隅には小さく「フェルディナンドの場合」と題されている。
挿絵をペンのお尻でもって軽く二度叩く。
するとフェルディナンドは顎《あご》が外れんばかりに口を大きく開け始めた。叫んでいるようにも、何かを訴えているようにも取れる。やがて彼の言動は激しさを増し、乱暴に顔中を引っ搔くせいで傷だらけになっていた。
最後は子供が作った粘土細工のような、歪み崩れた表情を浮かべ停止。場面は再び静かな病室に戻っていた。
単色の絵であることが幸いし、声は届かず、血も黒いため精神的な被害はそこまで酷くはない。けれどこんな惨《むご》たらしい後遺症が実際に存在していたかと思うと、それだけで背筋に冷たい汗が流れた。
「……これは日記から分かったことなのですが、彼は自身の内気な性格を治すために世界魔法を使用したそうです。この頃は特に危険で、例えるなら街中の人達が不可視の武器を振り回すような有様でした。
そこでヮタシは二つの安全策を講じます。その一つが“詠唱”です。アンさん、詠唱の構成は分かりますか?」
「導入句とぉ、具体句とぉ、完了句のぉ、三つだっぺ」
「……よくできました。それぞれを詳細に説明しますと、導入句は常時発動していた世界魔法を限定発動に変え、具体句はその名の通り魔法の具体性を高める役割を。完了句は魔法発動の最終確認という意味合いもあります。
ここまで整備する間にも多数の教え子が命を落としました。しかしこれからの時代に生まれた貴方達には、是非とも安全に世界魔法の開拓を行って頂きたい。過去の膨大な死者達が、明日の死者を生かすのです」
後半、彼の声は濡れていた。
今の今まで、私はアエス先生のおせっかい過ぎる性格が苦手だった。けれど涙ながらの訴えを聞き、献身的な態度の理由が少しだけでも掴めた気がする。
彼の胸中を知った学徒は他にもいたのか、教室には小さな拍手がちらほらと起こっていた。
「《――necto〔世の中の大人がもっとマシになってほしい。特に過保護はやめろ〕e――」
――アエス先生は咄嗟にもみあげを引きちぎり、学徒に投げる。
次に聞こえたのは甲高い破裂音。
状況からして、学章が砕け散ったようだった。
「……ハァ、ハァ、ハァ。授業はちゃんと聞きなさい」
息を荒げる彼の服には、銅の髪が何本も付着している。
「どうしてそこまでムキになんだよ」
「……ヮタシはただ無くしたいだけなんです。魔法あるこの世界から、全ての失敗を。ですからいいですか皆さん、次から学章は……いえ、日頃から付けておくように」
空気が凍り付いた教室に、アエス先生の声はよく響いた。
「……あぁそういえば。コルダさん! 方向音痴の件ですが、まずは色々と調べてみてはいかがでしょうか? 早急に解決したいのであれば、魔具を使うのも手ですし、もし金銭面に問題があれば買い与えます。それでも心配であれば、ヮタシが付き添っ――」
「――あっ、ありがとうございます! もう、大丈夫ですから!」
ああぁぁああっ、もう!
終わった話だと思って完全に油断していた。
「あれ?」
気付くと私は外にいた。
石柱が連なる回廊の中。朝の輝かしい光が斜めに差し込んでくる。無数に重なる足音に耳を傾けながら、大通りに敷き詰められた石の顔をぼうっと眺めていた。
でも……また?
講義が終わり、大教室から出たところまでは覚えてる。しかしここまで来た記憶がごっそりと抜け落ちていた。
無くした記憶を拾い集めるかのように周囲の様子を探う。
すると同じ回廊内。その少し先にある壁に見覚えのある幕が掛かっていた。ところどころ汚れた厚手の布は、もはや看板と言っていいほど深い印象が残っている。
図書館だ。
どうやら私は再び図書館の近くに来ていたらしい。
二回も同じ場所に来るなんて……。
黙って踵《きびす》を返そうとした時、アエス先生の言葉が引き留める。
折角ここまで来たのだから、内的魔法について調べてみるのもありかもしれない。それに、この方向音痴を治す方法だって、もしかしたら見つかるかも……。
好奇心と淡い期待に背中を押され、まるで手招きをするかのように翻《ひるがえる》る幕の下《もと》に、ふらふらと近寄ってしまうのだった。
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