保管庫前の通路は、一面血の海だった。
むせかえるような臭気が鼻を突き、修羅場には慣れているはずのクロフでさえ、一瞬嘔吐感をおぼえたほどだ。
散乱している傭兵たちの死体には、どれも上半身がなかった。
巨大な武器で殴られたのでも、爆風かなにかで吹き飛ばされたのでもない。
なにか、ものすごい力で内側から弾け飛んだというような有様だ。
いったいどんな攻撃をされたら、このような死体ができあがるのか。
会場を襲った武装集団は陽動。
本命、主力はこちら――危険なアイテムが多数収められている、この保管庫を、やはり狙ってきた。
「会場のホウは?」
無事な姿のトノヤマが訊ねる。
「あらかた片付いた」
「ボルタッカの旦那もいるし、あっちは大丈夫だろ」
こちらのほうが愉しそうだからと、クロフといっしょにきたルーティカが言う。
彼女は敵の姿を探して辺りを見まわすが、青ざめた傭兵たちの他にはトノヤマと死人しかいない。
「あっれー? どういうこった」
「気をつけてクダさい。賊は近くに潜っていマす」
「潜るだと?」
クロフの疑問はすぐに解消された。
生き残っている傭兵のうち、金庫からもっとも離れていた男の上半身が突如膨れあがり、針でつついた水風船のように破裂したからだ。
血と内臓が撒き散らされ、残った下半身がゆらゆら揺れる。
その傷口から、女の身体が生えていた。
衣服はいっさい身につけておらず、肌は透けて向こう側が見えている。
まるで水晶を削って作った女神のような美しい女が、しかしたしかに、生きているもののしなやかさで身をくねらせ、クロフたちのほうを向いた。
「おい。この船に水の精は乗ってたか?」
「さあ? 寡聞にして存じまセンが」
でも、彼女の顔には見覚えがありマすよ、とトノヤマは続ける。
すると、クロフについてきていたルーティカが、口許を引きつらせながらうなずいた。
「ああ。オレも噂にゃ聞いてる。あれは……〈四大精霊〉の一人、水潜華イグレットだろう?」
「さいデス、そうデス。さすガはルーティカ様」
〈四大精霊〉――裏の社会で恐れられている、四人の構成員から成る暗殺者チームだ。
いちおうは〈狂気の担い手〉の所属ということになってはいるが、金次第でどこの組織からの依頼も請け負う。
その名の通り、四人のメンバーは地水火風にちなんだ能力を持つとされるが、知名度に比して、能力や素顔といった実態はほとんど伝わってこない。
「まったくおかしな組織デス、〈狂気の担い手〉トは。クロフさんにせよルーティカ様にせよ、種族の特性を超えた特殊能力は、かなリの割合であそこの管理する〈天啓の詞〉が由来デス。敵と味方の区別もなく、無暗に特殊能力者を増やすなんて、とても理解できマせん」
「だよな。そんなとんでもねー石、独占すりゃあ船内での勢力争いで圧倒的優位に立てるってのに」
「無駄口はそこまでだ。来るぞ」
水潜華は、死体から身体を引き抜き、その透明な床につけた。
ぺたり、ぺたり――と、湿り気のある足音が、保管庫に近づいてくる。
気を取り直した傭兵たちが、次々に水潜華に弾丸を撃ち込むが、身体に当たったところで勢いが鈍り、力なく背中側に抜けて床に散らばる。
ならば、とばかりに、ひげ面の傭兵が青龍刀で斬りかかる。
だが、その刃も、とぷん、と音をたてて水潜華の身体に取り込まれてしまった。
「あらぁ。とてもたくましい腕ね」
水潜華が、ひげ面の傭兵の太い腕に自分の細腕を絡め、嫣然と微笑む。
「あなたの中、とてもあったかそうだわぁ」
ずぶずぶと、沈む。
指が。手のひらが。すりよせた頬が。
男の腕の中に、みるみる女が沈んでゆく。
「あんにゃろ、他の生物に潜り込めるのか!?」
ルーティカが叫ぶ。
ひげ面の傭兵は、恐怖におののきながら自分の腕を掻きむしったが、物理攻撃をすり抜ける水潜華を留めるすべなどない。
水潜華の全身が完全に消えてから数秒後、ひげ面の傭兵の上半身は、先刻の男同様に、内側から弾けとんだ。
「あらぁ? 今度はあなたがお相手してくださるの?」
正面に立つクロフに、水潜華は嬉しげに微笑みかける。
小さな舌が覗いて、ナメクジを思わせる動きで妖しく歪むくちびるをなぞった。
「やれんのか? オイ!」
「気をつけてクダさい、クロフさん!」
味方の声を背中に聞きつつ、クロフは槍を構えた。
「熱いのと冷たいの、どっちが好みだ?」
「はぁ?」
「熱いのと、冷たいのだ」
「そぉねえ。どっちかっていったら、熱いほうかしらぁ?」
「わかった」
腰を落とす。
瞬間、水潜華の顔つきが変わった。
一瞬にして距離を詰め、槍を突き出す。かわそうとした女の肩を貫通。ジュウッっと音がして、水蒸気がたちこめた。
槍の先が白熱している。鋼すら溶断できるまでに、温度を上昇させた。
斬っても殴っても効かない程度の相手なら、恐れる必要などなかった。
高温で蒸発させるか、凍らせるか。あるいは音でも光でも、攻略手段ならいくらでも思いつく。
「くっ」
水潜華が慌てて死体から抜け出そうとする。
下半身を収めたままでは攻撃をかわすこともままならないからだ。
だが、当然ながらその動作は、こちらに攻勢を許す隙となる。
蒸発したはずの肩の部分は、いつの間にか元通りになっている。だが、いくらか身体が小さくなっているようだ。
二度、三度と攻撃を加えると、さらに水潜華は縮んだ。
「さて。どこまで小さくすれば、息の根を止められるかな」
「……フフッ」
てっきり死の恐怖に脅えるか、すくなくとも焦るくらいはしているかと思いきや、水潜華は笑みを浮かべてみせた。
直感的にわかった。虚勢や強がりではないと。
この程度の修羅場には慣れっこであり、今度もまた余裕で切り抜けられるという、確信に満ちた笑みだ。
なにか奥の手を隠しているということは、いかにもありそうだ。それくらいでなければ、裏社会で名を轟かすことなどできはすまい。
そういえば。
〈四大精霊〉……残る三人は――どこだ?
思った瞬間、一陣の風が舞った。
居住区ではまともに風が吹くことなどめったにない。ましてやここは屋外だ。
とっさに槍を突き出そうとした手を止め、横に身を引く。
クロフのすぐ鼻先をなにかが駆け抜け、水潜華の姿がかき消えた。
「大丈夫かい?」
「助かったわぁ。さすがにトブラックの集めた精鋭ねぇ。厄介なのがいるわよぉ」
すこし離れた場所に、緑の髪の優男に抱きあげられた水潜華が現れる。
「あの男、おそらく順風陣のヨフィアでショウ。風を読む〈四大精霊〉の索敵担当と聞いていマスが、超スピードで動くこともできるようデスね」
トノヤマが言い終えるか終えないかというところで、後方で爆音にも似た凄まじい音が響いた。
振り返ると、黄色いコートを着た男が保管庫の前に立っていた。
黒髪と髭を短く刈り込んでおり、精悍な横顔は謹厳を貴ぶ神の像を思わせる。
男の足許では床が大きく裂けており、そこから土の塊があふれ出していた。
動く土は生き物のように動き、保管庫の扉の隙間に入り込んでゆく。
「あれは……! まさか〈四大精霊〉の三人目……漫地漢のブラームスン!?」
「なンと! スデに順風陣の手であそこまで運んでいたということデスか!」
目の前の水潜華と順風陣か、それとも後方の漫地漢か。
どちらに対応すべきか。トノヤマとルーティカが、一瞬の逡巡を見せる。
そのわずかな時間にも、漫地漢の操る土は扉の隙間に送り込まれ続け、ついには金属のねじ切れる鈍い音が通路に響き渡った。
死んだ二枚貝のように、保管庫がその口をあける。
土の塊がもこもこと動いて、取り出してきた品々を、貴人にかしずく従者のように漫地漢に捧げた。
「いけマせん。あそこにある商品は、どレも使い方を誤れば、この船を沈めかねない危険な物ばかりデス」
「そんなモノまで売って金にしている時点で、お前らも大概狂っていると思うぞ」
ヘンッ、とルーティカが鼻を鳴らした。
「ぬるいこと言うねえ。狂ってないヤツなんているのかい?」
ちがいない。
この船では――〈幽霊船〉という場所では、なにもかもが狂っている。
もちろん、クロフ自身も含めて。
強い相手と遭遇するたび、そいつが自分を殺せるかと値踏みするような人間が、狂っていないはずがない。
――さて、お前らはどうだ?
――あの夢のような死に様を、俺にもたらすことができるのか?
無銘の槍を構えるクロフの脳裏に、ふいにひとつの顔がよぎった。
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