バラックシップ流離譚

異形ひしめく船上都市
葦原青
葦原青

リーゼルの秘密

公開日時: 2020年11月27日(金) 00:01
文字数:2,455

 近くで見ると、それは本当に白い糸としか思えない見た目だった。

 さわっても感触がほとんどなく、そのくせ相当な粘り気と伸縮性があり、むやみに振りほどこうとするとよけいに絡まって動けなくなる。


「なんなの、これ……」


 罠の発動したところを調べてみたが、なにもない。

 誰かがここに来てなにかを置いていった形跡もない。


「まさか、空間に仕掛ける罠?」


 一つひとつ設置するのではなく、一定範囲の空間を丸ごと作り変え、特定の条件で発動するように設定しておく。

 そういう能力や魔法の類を使える者、あるいは装置を作り出せる技術者も、この〈幽霊船〉には暮らしている。彼らが、その力を戦闘に転用することも珍しくはない。

 どっち? 後者ならどこかにその装置があるはずだが、前者ならより厄介だ。

 そいつがこの場に留まり続ける限り、罠を完全に除去することはできない。


 探せ。

 人。地面。壁。建物。

 どんなに些細でもいい。違和感を見つけるんだ。


 でも、その前に。

 リーゼル自身が、この糸から脱出しないことには始まらない。

 破壊力はなさそうだからと甘く見たのがマズかった。まさかここまで動きにくくなる代物だったとは。

 もがいているうちに、リーゼルは足を滑らせ、屋根から転がり落ちた。


「うう……もう! なんなのよコレ!」


 受け身など取りようもないのでめちゃくちゃ痛い。涙目になりながら叫んだとき、リーゼルの背後から、ふっと影が差した。

 とっさに転がる。ずがっ、という音がして、槍のようなものが地面に突き刺さった。


 いや――


 槍と見えたものは腕だった。

 鋭くとがった爪と、節のある何本もの腕。

 さっき戦ったクワガミの親戚が復讐に現れたかと思ったが、そうではない。

 彼女はいわば、立ちあがったクモ。蜘蛛人アラニアンと呼ばれる、節足動物系の亜人の女性だった。


「何者っ!?」

「私はティプサー」


 そう言って、クモ女は六本の腕をわしゃわしゃ動かしながら、次々に突きを繰り出してきた。

 どす、どす、どす、と――絡みついている糸ごと、やすやすと貫かれる。

 まさしく間一髪、だった。

 ティプサーの爪に貫かれる寸前、リーゼルは糸に絡め取られた服を脱ぎ捨てることで、その猛攻から逃れた。

 服は穴だらけになってしまったが、命には替えられない。


「いいぞ、姉ちゃん。いい脱ぎっぷりだ!」

「次は思い切って、ぱんついってみよう!」


 外野から無責任な野次が飛ぶ。

 リーゼルは尻尾と手を使って胸と股間を隠したが、これはこれで、下着が見えにくくなるせいでむしろ全裸っぽくなってしまうような気がしてちっとも安心できない。

 本当ならすぐにでも物陰に駆け込みたいところだ。

 しかし、目の前には臨戦態勢の蜘蛛女がいる。

 彼女の目に白い部分はなく、すべてがレンズのような、つやつやとした漆黒だった。


「放っておいてもセレスタは仕留められそうだったけれど、どうせならあなたの息の根も、確実に止めておきたいものねえ」


 じっと見つめられると足がすくむ。まさしく捕食者の目だ。こっちは竜で、向こうは虫なのに。

 彼女が罠を仕掛けた犯人――なるほど、蜘蛛人アラニアンであれば、糸を操る能力を持っていて当然だ。


「なんなんですか? どうしてわたしたちを襲うんですかっ!」

「おかしなことを訊くのね。〈竜の子らドラゴニュート〉の一員というだけで、理由は充分じゃあないかしら?」


 艶っぽい声で、馬鹿にしたようにティプサーは返す。

 言われてみれば、たしかに。

 強大な組織に属することは抑止力として働くが、はなから敵対している相手には意味がない。

 ショウジョウのいるモールソン・ファミリーにしても、現在表立っての抗争はおこなわれていないものの仲は悪く、お互いに潜在的な敵と見なしている。

 だからこそ、〈竜の子らドラゴニュート〉のメンバーが個々に動いて、モールソンの勢力拡大を妨げているのだ。


「モールソンの人に手を貸したのは偶然? それとも最初から話がついていたの?」

「さあ、どうかしら。そこまで教えてあげるほど親切じゃあないわ。もっとも、あなたのことを教えてくれるなら、すこしくらい質問に答えてあげてもいいけど」

「わたしの……?」

「そう。いま、ちょっとした話題なのよ、〈竜の子らドラゴニュート〉のかわいいルーキーさん。あなたがいったい何者で、どうして卵なんかに入った状態で発見されたのか――いろんな憶測が飛び交ってるわ。いずれかの長老の隠し子説から亡国の王女説、果ては人型の秘密兵器だとか、まったく未知の世界から送り込まれた〈幽霊船〉そのものに対する刺客説まで」

「えええ……なんですか、それ」


 聞いているだけで頭が痛くなってくるような珍説だらけだが、いちばんの問題は、どの説に対しても明確に否定できる根拠をリーゼルが持っていないことだった。


「いま挙げた中に正解はあるかしら?」

「さあ……むしろ、わたしが教えて欲しいくらいですよ」

「ふぅん。どうやら、ここに来る前の記憶がないっていう噂は本当みたいね。個人的に、すごく興味があるんだけど……」


 ――ま、べつにいっか。どーせ殺すし。


 ティプサーがそう言うと同時に、彼女の爪の先から、あの白い糸が噴き出した。

 それはいったん霧のように広がってリーゼルの身体に纏わりつき、寄り集まっていく。


「罠にかかるのを待つなんてまどろっこしいことはナシ。今度は直接、念入りにね……」


 逃げようとしたときにはもう遅い。

 あっという間に全身を絡め取られ、リーゼルはその場にひっくり返った。

 どうしよう。まったく身動きが取れない。

 ティプサーが、挑発するように爪の先を舐めながら近づいてくる。まずい。これはまずいって!


「逃げろォ! リーゼル!」


 セレスタが叫んだ。

 だからぁ! それができないからピンチなんですってば!

 ひゅっ、とティプサーが腕の一本を振り下ろす。


「いぎっ!」


 背中の鱗のない部分の皮膚がやすやすと貫かれ、一瞬遅れて痛みがやってきた。

 爪が引っこ抜かれると、どくんどくんという心臓の鼓動に合わせて血が溢れてゆく。

 そのことを意識したとたん、額がすうっと冷たくなった。

 あ、これはヤバイ。意識がトぶ……。

 でも、気絶してるあいだに死ねるんだったら、苦しくなくていいなあ。


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