ひと息に吐き出した。
肺が空になるほどに。
その後の沈黙が、妙に恐ろしかった。
バレても構わない。そうなったら出ていけばいいだけ――
シャービィ自身、ずっとそう思っていた。
だが、いまは?
胸は苦しく、にぎったこぶしは震えている。
マキトは大きく目を見開き、ぽかんと口をあけていた。
無理もない。
ほとんどの住人にとって、正規クルーはなじみがなく、不気味な存在だ。
もっとも接する機会が多いのは憲兵だが、彼らは船を守ること以外興味がなく、それでいて危険と判断した相手には容赦がない。
しかも、外からやってきた新参者は、まず憲兵による“洗礼”を受け、逆らってはならない相手という意識を植え付けられる。
「そうだよな……怖いよね、やっぱり」
「う、ううん! ちがう、そんなことない!」
マキトは慌てて否定した。
優しい子だ。この期に及んで、騙していた自分を気遣ってくれるとは。
「無理しなくていいよ。ほんと、私のわがままなんだ……化け物のくせに、人恋しくってさ……たまに普通の人族に混じって暮らしたくなるんだよ。そんで、バレそうになったら消える。その繰り返し……」
「シャービィ、あんたの役職は?」
「役職なんて、そんな大したモンじゃあないよ私は……クルーの中でもその他大勢。ただの検疫官さ」
検疫官――銀色の防護服に身を包み、〈幽霊船〉に入ってくる人や物を消毒するのが役目である。
顔の見えない仕事なので、普通の人間のフリをして船内をうろついていてもバレる心配はほぼない。
シャービィのように居住区で暮らしている者も、少数派ながら存在する。
「正規クルーにかけられている呪いはふたつ。いまいった不老不死と、もうひとつは〈幽霊船〉から降りられなくなる。この船に永遠に縛りつけられ、船のために働く部品のひとつとなる……退屈な仕事だよ。何百年も繰り返していると、自分が生きてるのかどうかさえわからなくなる」
「だから、か」
「変化とまではいかなくても、せめて刺激くらいは、ね」
「なにか企んでいたわけではないんだな?」
「そんな気力、とっくになくしたよ」
そうか、と瀬青は神妙な顔つきになった。
役目とはいえ、暴かなくてもいい秘密を暴いてしまったという罪悪感を感じているのかもしれない。
「気にする必要はないよ。どうせ、長くてあと一年。それ以上はみんな怪しみ出す」
「いやだよ、お姉ちゃん!」
泣き出しそうな声でマキトが叫んだ。
袖の肩口をにぎりしめる小さな手に、シャービィは自分の手を重ねた。
「最初から決めてたことだ」
「僕、誰にもいわないよ? それならあと一年、いっしょにいられるよね」
「いや……もし、どこかで正体がバレたら、そのときはマキトを疑わざるを得なくなる。そんなのは嫌だ」
「お姉ちゃん……」
「そんな顔するな。べつに船からいなくなるわけじゃあない。なんなら、私の仕事があるときに会いにくればいいさ」
「あー……盛り上がってるところ悪いんだけどさ」
瀬青が遠慮がちに口をひらいた。
「それ、なんとかなるぞ」
「「え?」」
シャービィとマキトの声が重なった。
「私にかかっている魔法を、あんたの正体に関わる記憶と紐付けする」
「な、なるほど……でも、そんなことができるのか?」
「記憶をピンポイントで忘れさせたいときに使う手だ。便利だぞ」
マキトは安堵したようすだったが、すこし笑顔がこわばっていた。
どの道、一年。
長いようであっという間だとか考えているのかもしれない。
「じゃあ、さっそくやるかい?」
「待って。その前に……」
シャービィは、床に置いていた鞄をテーブルに乗せた。
〈虚無の海〉に吹く風は、かすかに錆のにおいがする。
ねっとりと肌にからみ、ぴりぴりと鼻腔が刺激される。
航行中の甲板に出る者はまれで、左右を見渡してもシャービィたち以外、人っ子ひとりいなかった。
「始めるよ」
検疫官の装備一式は、専用の倉庫にまとめて置いてある。
シャービィはその中から、消毒薬の入ったボンベだけを持ってきた。
ボンベを背負い、ノズルを構える。うなずいて合図すると、前方に置かれた鞄に、マキトが手をかけた。
「一……二……三!」
小さくひらかれた鞄の口に、すばやくノズル先端の噴射口を突っ込み、レバーをにぎる。
プシューッ、という音とともに白い粉状の消毒薬が噴き出す。
鞄の容量をたちまち超過し、溢れたそれが煙のように周囲に立ち込めた。
薬の噴射を止め、しばらく待っていると、徐々に視界が晴れてゆく。
シャービィとマキト、それに瀬青の三人は、額を集めるようにして鞄の中を確認した。
「なんにもないよ?」
「そういったろ」
「すごいな。ほんとに浄化されてる」
検疫官の用いる薬は、もちろんただの消毒薬ではない。
成分、性質によらず、あらゆる毒や病原菌の類を無害化する法具なのだ。
シャービィが、これで影を浄化をしようと提案したのは、〈虚無の海〉に捨てるという、まるでゴミのような扱いを不憫に思ったから――
いや。
正確には、マキトが不憫がるだろうと思ったからだ。
腕を喰われかけるというアクシデントはあったものの、影に対し情が湧きつつあるのは察せられた。
一見、薬で殺しているようで、たいした違いはなさそうに思えるが、実際は迷える魂を導くといったほうが近い。
文字通り、浄化なのだ。
そう説明すると、曇っていたマキトの表情は、すこしだけ明るくなった。
「大丈夫。ちゃんと記録はつけてるんだろう?」
「うん」
「ちょっとくらい魔法で忘れちゃうかもだけど、それなら思い出せる」
「お姉ちゃんのことも書いておくよ」
「おいおい。それじゃあ意味がないだろ」
「大丈夫。『一年たったらはがすように』って書いて、袋とじにしておくから」
「ああ、それは賢い」
シャービィが道具を取りにいっているあいだに、マキトはすべての作業を終わらせていた。
相変わらず手際がいいと感心したが、甲板へ向かう途中に瀬青が耳打ちしたところによると、ノートになんと書くか、ずいぶん悩んでいたらしい。
「主に、アンタが自分にとってどういう相手なのかって部分は何度も書き直してたよ」
友人。
近所のお姉さん。
まさか、憧れの人ということはあるまいが。
いま、それを質すのはやめておこう。
いずれ、再会したときの楽しみに。
どうせ時間はいくらでもあるのだから。
あらためて鈍色の空を見上げる。
薬はすっかり散ってしまい、影もまた跡形もない。
マキトと手を繋いだまま、結構長い時間そうしていた気がする。
「さて。こっちもそろそろやるか」
瀬青に促され、シャービィとマキトは彼女と向き合った。
いったいどんなふうに魔法をかけるのかと思っていると、瀬青は右手を突き出し、人差し指と中指に親指の腹をこすりつけるような仕草をした。
すると、数拍の間をおいて、あたりに花のような甘い香りが漂い出した。
「嗅覚は、もっとも強く記憶と結びついた感覚だ。それを利用する」
「な、なんかドキドキしてきたな……」
「しばらくはなにも変わらないさ。すこし眠くなる以外、身体に違和感も生じない。私と別れたあと、だんだんと思い出せなくなるだけだ」
「なんだかんだ、世話になっちまったね」
シャービィが視線を向けると、瀬青はかすかに微笑んだような表情でそれを受け止めた。
「でも、どうしてここまで……?」
「べつに、大したことじゃあない。でも、そうだな……私も――私と姫も、あんたたちほどではないにしろ、長い時を生きている。だから、気持ちがわかるんだよ」
「……ん? そういや、小竜姫やあんたの名は、居住区ができてすぐの頃から聞いてた気がするけど、人族ってそんなに長生きなはずは……」
「おっと、これ以上はダメだ。どうせ忘れるから、サービスで話したんだ」
瀬青はくちびるの前で人さし指を立て、いたずらっぽく片目をつぶった。
自室の底で、シャービィは目を覚ます。
相変わらず物は多いが、すこしずつ整理を始めた。
引っ越しの準備だ。
立つ鳥跡を濁さず――だらしないという自覚はあるが、そこだけはちゃんとしようと決めている。
マキトは相変わらず、心の赴くままに興味の対象を見つけ、それらを探求する日々を過ごしている。
影もときどき見つけては、シャービィのところへ持ってくる。
薬で浄化しているとはいえないので、知り合いの聖職者に頼んで弔ってもらっていると説明していた。
あと、どれくらいだろうか。
居住区の住人には時間間隔がおかしくなっている者も多いが、正規クルーはさらに酷い。
あれからきっちり一年後に出ていく必要はないものの、ずるずる先延ばしにするわけにもいくまい。
まあ、経験上だいたい部屋の片づけが終わったら、それが頃合いだ。
すこしずつ、すこしずつ物が減って。なにもない空間が増えていく。別れの時が近づいてくる。
気づいたときには、外に飛び出していた。
「マキト!」
自宅前で水を撒いていた少年が、驚いたように顔を上げる。
「どうしたの、お姉ちゃん」
「でかけるぞ!」
声を弾ませながら手を引いた。
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