バラックシップ流離譚

異形ひしめく船上都市
葦原青
葦原青

狩り

公開日時: 2021年1月15日(金) 00:01
文字数:2,066

 妙な気分だった。

 アステラと名乗った女の顔が脳裏から離れない。

 たしかに人目を惹く容姿ではあったが、美しいというだけでは説明がつかなかった。

 思わず見惚れるほどの完璧な所作。

 いまひとつ意図の読めない言動。

 探りを入れようと踏み込んでも、慇懃に、しかしきっぱりと示された拒絶。

 トブラックの社員が、ゼラーナの通う店に、鑑定を依頼しに訪れた――そこに、怪しいと言えるほどのなにかがあるわけではない。

 あるとすれば、そう。

 わざわざゼラーナを待っていた点だ。

 隠れ蓑としてではあっても、日々真面目に励んでいた仕事ぶりが認められたと、素直に喜ぶべきところなのだろうが。

 実際、それだけの働きはしていたと思う。

 しかし、希望的観測を簡単に信じ込めるほど、ゼラーナの人生は安穏ではなかった。

 ちりちりと、腹の底で燻るもの。

 いつもなら警告と受け取るところだが、なかなかそうできずにいる。

 なぜ?

 まさか、アステラを敵だと断じたくないとでも?


(そんなはず、ない……私にとって都合のいい“本当の目的”なんてものがあったとして、それを伏せる理由はなに?)


 ばかばかしい。

 いつからそんな浮わついた人間になった、と自嘲しつつ、気づけば彼女のことを考えている。

 そんな調子で具体的な手を打つこともせず、二日が過ぎたところで空気が変わった。

 もはや肌になじんだ感覚。

 はっきりと、危機が迫っているという実感を得るや、ゼラーナは隠れ家を後にした。

 なるべく人の多い場所へ。

 自分を紛れ込ませ、いざとなれば盾にできるように。

 市場の喧噪。

 誰も彼もがゼラーナとは関係のない言葉を投げ合っている。

 消せ。溶け込め。空気となれ。

 存在を認知されても、個体識別まではできぬほどに。

 そうやって、雑踏をうろつく有象無象となりながら、周囲を窺った。

 あちらの路地。

 こちらの路地。

 そして背後から、なにかが迫ってくるのが見えた。

 通行人の足許をすり抜けながら、人が歩くくらいの速度で移動している。

 乳白色の獣のようだが、奇妙な形状をしている。

 喩えるなら、おそろしく柔軟なゴムまりに四肢を生やした感じか。

 ぐにゃぐにゃと身体を変形させ、人々の通行を妨げることもない。

 時折、彼らに気づいた者が「うわっ」というような声をあげるが、害はなさそうだとすぐに判断し、通りすぎていってしまう。


(あれはたしか……豚犬グルニスキロス……だったっけ?)


 以前、仕事で出向いた金持ちの家で飼われてるのを見たことがあった。

 嗅覚以外の感覚はほとんど退化してるが、一度匂いを覚えた“獲物”はどこまでも追いかけて喰い殺すのだと、家の主人は自慢げに語っていた。

 囲まれる前にと、グルニスキロスのいない道に入ると、三頭とも後からついてきた。

 やはり、自分を狙っているのだ。

 ゼラーナは早足になった。


(どこ? どこで匂いを嗅がれた?)


 周辺の地図を思い浮かべながら、目まぐるしく頭を回転させる。

 大丈夫。大丈夫。

 立て籠もれそうな建物、腕っぷしの強い知り合い。

 対処法はいくつもある。

 馬鹿正直に匂いを辿ってくるだけの猟犬など、簡単に出し抜いてみせる。

 壁にあいた穴や、屋根をつたってあるける場所――そうしたショートカットを駆使しつつ、安全な場所を目指す。


(ヤな感じ……どんどん人気が少なくなってる)


 舌打ちが漏れる。

 群衆に紛れるという当初の思惑が外れたためか、ゼラーナの心に焦りが生じていた。


(まさか、そういう方へ追い込まれてる? でも、あのケダモノにそんな知恵なんて……)


 相手は原始的な本能しかない食欲の塊だ。

 だが、行動原理が単純なほうが、使役するのも容易いのかもしれない。

 表情は、あくまでも平静を保っていた。

 グルニスキロスを操っている者がどこかで見ているならば、無様を晒すわけにはいかない。


(ここだ……!)


 次の角を曲がってすぐにある横道を抜ければ、顔なじみの酒場の前に出る。

 そこの用心棒はゼラーナに気があるので、喜んで助けてくれるだろう――と、そこで駆け足気味になっていた歩みがぴたりと止まった。

 埋まっていた。

 身体を横にしてようやく通れるほどではあるが、数日前まではたしかに存在していた横道が。

 まるで元からひとつの建物であったかのように、左右の建物に使われているものとおなじレンガによって、塞がれていたのだ。

 新たな住人が住処を作る、組織間の抗争で破壊される――その他さまざまな理由で『居住区』の地図は常に変化しており、さらには謎の空間のねじれによってふたつの地点が結ばれたり、あるいはその逆が起こる、というようなことさえある。

 今回は、それだ。

 どれほど用心深く振舞おうとも、こればかりはどうしようもない。

 この場所で暮らす限り、常に起こり得る不条理だった。


(どうする――?)


 逡巡するゼラーナの耳に、ハッハッという息づかいが聞こえた。

 振り返って足許を見ると、乳白色の毛玉がいた。

 最初の三頭とは、十分な距離を取れていたはず。

 他にも、いたのか。

 毛玉の鼻先――干しブドウのように退化した目があったので頭部だと知れた――が横に裂け、ずらりと並んだ牙と、真っ赤な舌が露わになる。

 熱い吐息が、ふくらはぎにあたるのを感じた。


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