バラックシップ流離譚

異形ひしめく船上都市
葦原青
葦原青

邂逅

公開日時: 2021年8月12日(木) 12:43
文字数:3,583

 その背中が、いまは遠く感じた。

 艶やかな黒髪を揺らし、先を往く彼女ニーニヤを、いつだってウィルは、必死になって追いかけていた。

 文句をいい、無駄とわかりつつも時には叱り、危機が迫った際には前に出て庇った。

 すべては彼女のため――などというつもりはない。

 結局のところ自分のため。

 彼女を守ることで、居場所を守っていたにすぎないのだから。

 ならば、彼女がどう思っていようとも、ウィルは自分を貫きさえすればいい。

 そのはず、だった。


「ほら、見たまえ!」


 声を弾ませ、ニーニヤが指さした。

 ウィルも見た。

 それは、光る蝶の群れだった。

 数ブロック先の屋根の上。

 青白い燐光を放ちながら、いっせいに天井を目指し飛んでいく。

 けれども、群れは天井に到達する前に、無数の光の粉となって消えた。

 あまりにも儚い命。

 可憐で幻想的な一方で、滅びを知りつつ我が身を燃やし尽くすかのような執念さえ感じる。


「ふむ。どうやら生物ではないようだね。魔法か、能力者フルーリアンの力によるものか。実体はあるのか幻なのか。いってたしかめてみるべきだねえ」

「おい、気づいてないのか?」


 ウィルは周囲を見回した。

 先ほどから響いている怒号や戦闘音。

 あきらかに、蝶の見えた方向から聞こえてきている。


「虎穴に入らざれば虎子を得ず、だよ」

「無策で突っ込むのはただのバカだ」

「そのためにキミがいるんだろう?」


 ニーニヤは振り返って、ウィルに向かって手を差し出した。

 彼女は屈託なく笑ってみせる。

 ここ数日の険悪なムードなど、きれいさっぱり忘れ去ったかのような態度だ。


 取れ――というのか。この手を。


 ウィルは、少女の手を見つめた。

 真っ白で、しなやかで、すこしインクで汚れている。

 いつもウィルを振り回す、憎たらしくて、美しい手だ。

 ウィルの右手の指が、ぴくりと動いた。

 このままなにも考えず、この手を取ることができればどんなにいいか。


「なあ……ニーニヤ」

「なんだい、ウィル?」

「お前にとって、おれはなん――」


 ウィルの言葉が終わらぬうちに、すぐ近くの屋根になにかが落下した。

 砕けた壁土や屋根に使われていた板がバラバラと降り注ぐ。

 ウィルは腕で顔を覆う。数秒遅れてその落下物が、ふたりの目の前に着地した。


 人――だ。


 防御よりも動きやすさを重視した革鎧。

 使い込まれた長剣。

 歴戦の戦士といった風情の山羊人ガラドリン女。

 肌は浅黒く、顔、脇腹、太ももに獣の骨のような刺青が彫られている。

 あちこち傷を負い、中には結構な深手もある。

 相当に疲れているのか息も荒く、右の角は先端が欠けていた。


「おい。アンタ、大丈夫か?」


 ウィルが声をかけると、女は顔を上げた。

 その目を――表情を目の当たりにし、ウィルは戦慄した。

 山羊人ガラドリンでありながら、まるで肉食獣のような血に飢えた眼光。

 凄惨で、陰惨で、昏く、困憊し、絶望と呪いに彩られながらなお、それらをはるかに上回る喜悦。


(なんだ、こいつ……)


 うかつに話かけてしまったことをウィルが後悔しかけたとき、もうひとつの人影が、女の前に降り立った。

 こちらは巨大な体躯の猿人エイブンだ。

 怒気を露わにし、だらりと下げた右腕には白い蝶のかたちの斑紋がびっしりとついていた。


「さすがに……強いな。正面から倒すのは……ひと苦労だ」

「抜かせ! 仲間の仇だ、ここで終わりにしてやる!」


 猿人エイブンは左手の指を鉤のように折り曲げ、いつでも飛びかかれる姿勢を取った。

 対する女は、剣を両手で握り、切っ先を地面に向けて構える。

 ウィルは、レムトから習って知っていた。

 門の構え――頭部ががら空きに見えるが、その実防御に優れ、攻撃してきた相手にカウンターを喰らわせるのに適している。

 しばらく睨み合ったのち、猿人エイブンが猛然と駆け出した。

 女の見せた隙に誘い込まれたかたちだ。

 案の定、猿人エイブンの爪が相手に届くよりも早く、女の突きが猿人エイブンの肩口を貫いた。

 ぐおっ、と吼えて横倒しになった猿人エイブンの背中を、女が踏みつけた。

 軽く体重を乗せているようにしか見えないのに、それだけで猿人エイブンは動きを封じられていた。

 ひらり――と光が躍る。


「うぐ……ああああ!」


 女が猿人エイブンの背に手をあてた瞬間、まるで水辺に集まっていた群れが飛び立つように、無数の蝶が、青白く光る鱗粉を散らしながら次々に舞いあがった。

 同時に、茶色かった体毛がみるみる白くなり、盛りあがった筋肉も果実がしぼむように体積を減らしてゆく。


「なんだ、ありゃあ……生命力を、蝶にして吸い出してるのか?」


 猿人エイブンがあげ続けていた苦悶の声も弱々しくなってゆき、最後の一匹が背中から抜け出るとともに途絶えた。

 屈んでいた姿勢から女が身体を起こし、振り返る。

 興奮したようすのニーニヤが、ウィルの袖をにぎりしめた。


「ああ……見つけた! あなただ。あなたなんだな!」

「なんだ、お前たちは?」

「この近辺で立て続けに起こっていた怪死事件を追っている者だ。その能力、犯人はあなたで間違いないな!」

「これは……物好きな奴もいたものだ。……それで? 私がその事件とやらの犯人だとして、どうするつもりだ?」

「話を聞きたい!」


 迷いのない答えに、女は一瞬面食らったようすだったが、すぐに腹部を押さえて笑い出した。


「なんなんだ、お前は。ひょっとしてバカなのか?」

「そこは同意する」


 ウィルはむっつりと呟いた。


「目撃者は消されるとか思わなかったのか?」

「犯人がフルーリアンだとは当然予想していたよ。正直、いちばんつまらない答えではあるがね。だが、肝心なのは動機だ。いったいいかなる目的で、このような凶行に及んだか。金? 怨恨? 功名心? それとも余人には窺い知れぬ渇きを癒すため? それは、このような能力の発現とも関わる事柄なのか?」

「つまり、好奇心が恐怖に勝ったわけだ」

「どうだい、話してくれるかい?」

「残念ながら、そんなヒマはない」

「そこの彼、モールソン一家あたりの構成員だね。いままさに抗争の真っ最中なのかな?」

「そう。ただし渦中にある組織双方にとって、いまや私は憎むべき敵だが」

「その割には悲壮感がないね。むしろ、この状況を愉しんでいないかい?」

「わかるかい?」

「ああ。ゾクゾクするねえ。ますます興味が湧いてきた」


 ふたりの女は、満面の笑顔で見つめ合った。

 ウィルにいわせれば、どちらも頭のネジが緩んでいる。


「いいかげんにしろ」


 ウィルはニーニヤの肩をつかんだ。

 放っておけば、いまにも目の前の危険人物に駆けよっていきそうな雰囲気である。


「なあ、アンタ。このままおれたちが消えるといえば、見逃してくれるか?」

「冗談じゃないぞ、ウィル。こんな千載一遇のチャンスを――」

「黙ってろニーニヤ! そんな状況じゃないってわかれよ!」


 正直、交渉が通じる相手かも怪しい。

 だが、戦えば間違いなく殺される。負傷も疲労もハンデにすらならないだろう。

 なぜもっと本気でニーニヤを止めなかったのかと、いまさらながら後悔した。


「たしかに。私にとって、お前たちなぞどうでもいい。こうして会話もせずに、うっちゃっておいて構わないはずなんだ――だが」


 酔いどれたような足取りで、女が一歩近づいた。


「なにか――気になる。なにかが――ひっかかる。なんだ? お前たちは……何者だ?」

「ボクはニーニヤ・レアハルテ! 〈記録魔ザ・レコーダー〉の二つ名で通っている。こっちは護衛役のウィルだ!」

「ああ、聞いたことがあるな。お前がそうか」


 一歩、一歩。歩みは止めない。

 変わらず、笑みは貼りついたまま。

 殺意の有無は、判別できない。


「私のことも、記録したいのか。そういうことか」

「さあ、こちらは名乗ったわけだが?」

「いいだろう。私はファビリオ・ラ=ミナエ。元殺し屋の、傭兵だ」


 これ以上は、もう――

 ウィルは剣を抜き、ふたりのあいだに割って入った。

 耳許で、かちりと金属音がする。

 掲げた剣に、ラ=ミナエの剣が当たったのだと、遅れて気づいた。

 とっさにニーニヤを後方に突き飛ばし、相手の剣を弾いて構え直す。


「危ないな。急に飛び込んでくるものだから、思わず反応してしまったじゃあないか」

「抜かせ! どの道殺すつもりだったんだろうが」

「ひどいな。まあ、番犬はそれくらいで丁度いいのかもしれないが――おや?」


 ラ=ミナエの顔から笑みが消えた。

 代わりに眉間にしわが刻まれ、瞳の奥に激しい感情が躍ったような気がした。


「……お前。その構え……誰に剣を習った?」

「はあ? そ、それがなんだってんだ」

「答えろ!」


 人が変わったような突然の怒声に、ウィルは身を竦ませた。


「マ、マーカスってエルガードだよ。それから、最近じゃあレムト・リューヒにも……」

「レムト? レムト……ああ、そうか。やっぱりなあ……」


 ラ=ミナエの喉から乾いた音が発せられた。

 彼女は身をよじり、肩を震わせた。

 どうやら笑っているらしい。

 いったいなにがおかしいのか。

 不気味に思い、ウィルが後退ると、ラ=ミナエが顔を上げた。

 ウィルは息を呑んだ。

 歪みきった表情からは、あらゆるドス黒い感情が渦巻いているのを読み取ることができた。



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