「力」を得る――それがラムダの行動原理だった。
船尾にもっとも近い貧民街で、彼は生まれた。
両親の顔や名前は知らない。大方、べつの地区に住んでいて、生まれたばかりのラムダを売るか捨てるかしたのだろう。
そこは人がましい倫理観など皆無で、誰もが浅ましくその日その日を這いずって生き、明日への展望など、どこにも欠片も存在しない場所だった。
クソのような匂いのするゴミ溜めにあって、ラムダの才能は傑出していた。
彼は自分とおなじような境遇の子供たちを集め、大人たちにも負けない組織を作りあげた。
盗み、物乞い、恐喝等々、あらゆる手段を駆使して金を集め、奪われる側ではなく奪う側に立つべく奔走した。
頭角を現したラムダに周辺の組織が目をつけないはずはなく、モールソン一家の幹部、グラッド・モールソンが直々にスカウトにやってきたのが去年のこと――目論見通り、と内心ラムダはほくそ笑んだ。
ここまで、仕事はできるだけ派手におこない、名を売ることにも心を砕いてきたが、それはより強大な組織に存在を誇示するためだった。
グラッドは一家のボス、ファルタンの二番目の息子で、慎ましいラムダの隠れ家では入口を壊して入らなければならないほどの巨体を持った猿人だった。
粗野で凶暴。よく言えば豪放磊落な性格だが、自分だけはなにをしても許されると思っているようなタイプで、ラムダが一家に加わったのち、直属の上司となった三男イグラッドに至っては、次兄から知性を除いて凶暴性をマシマシにしたような、極めて物騒な男だった。
しかし、それでも彼らは、誰の目にも明らかな「力」の所有者だった。
無法という法の支配する船内にあって、力を持つことがなによりも重要なのはいうまでもない。
食うため。
身を守るため。
快楽を得るため。
軽んじられないため。
すべては力あってこそ、叶えることができるのだ。
力を得るための競争、闘争には犠牲がつきものである。
貧民街で暴れまわっていた頃も、たびたび身内から死人は出たし、ときには血を分けた兄弟すらも切り捨ててきた。
加入当初から幹部候補のひとりと目され、手始めにこいつらを率いてみろと、奴隷市場から買われてきた少年少女を引き合わされたとき、果たして何人が最後まで自分についてこられるかと、密かに値踏みしたものだ。
ニッカは虎の威を借る鼬、サタロは臆病で強い者には無条件でひれ伏すといった欠点はあるものの、手駒としては悪くない。
臆病というならミツカのほうがよほど酷いが、彼女にしても、戦闘ではニッカたちより良い動きをする。それに、他者に警戒心を抱かせにくいという特性は、使いようによっては役に立つかもしれない。
初顔合わせでのこの評価は、〈天啓の詞〉での覚醒を経て確信に変わった。
ニッカたちの手に入れた特殊能力は、いずれも戦闘の助けとなるもので、幹部たちからも「使える」というお墨付きを得た。
一方、ラムダのそれは、「炎」だった。
――いいじゃあないか。
思わず、そうつぶやいた。
地獄の業火。
灼き尽くす燎原の火。
魔を払う浄化の炎。
いずれも力そのもの。ラムダは己の未来が一気にひらけるのを感じ、恍惚となった。
しかも、ただの炎ではない。
掌中より生まれた炎はラムダの思い描いたとおりのかたちを取る。
「剣を」と念じれば剣に、「盾を」と念じれば盾に、「馬を」と念じれば騎乗もできる駿馬となった。
もとより純粋な破壊力に優れるうえに、極めて汎用性の高い能力に、彼は満足を覚えた。
実際、この能力を駆使すれば、イグラッドから命じられるどんな困難な仕事も、容易く完遂することができた。
イグラッドも、ラムダをスカウトしたグラッドも大いに喜び、先日ついに、一家のボスであるファルタン・モールソンとの面会も叶った。
「お前ももう、立派な我が家の一員だ。これからも励むようにな」
世間からは悪鬼のように恐れられる老猿はさすがの威厳の持主だったが、元気な若手を見やるしわ深い顔には好々爺といってよい色が垣間見えた。
まさに順風満帆。
そんなラムダにとって、ウィルという少年は、道端の石ころや雑草ほどの印象すら残らない存在だった。
競争には犠牲がつきものである。
誰かがのし上がれば、べつの誰かが振り落とされる。
それは、この世の絶対的な摂理であり法則だ。
勝者は敗者を顧みる必要などなく、もっといえば、その権利さえ持たないのだと、ラムダは考える。
だから、取るに足らない能力しか獲得できず、一家を放逐された少年のことなど、すぐに記憶の片隅に追いやってしまった。
――誰だ……?
再会したときも、正直すぐには思い出せなかった。
いまもすこし、自信がない。
本当にウィルなのか? 実は、ウィルとはいっさい関わりのない別人で、なにかの事情から皆で示し合わせて騙そうとしているのではないかという疑いさえ浮かんだほどだ。
向こうはなにやら、こちらに含むところがあるらしく、親の仇でも見るかのような目つきで睨まれたりもしたが、これもとんと思い当たらない。
いったいなにをしたというのか。あるいはしたと思われているのか。
それほどに、ウィルとやらとラムダとの接点は薄く、どうでもよかったということなのかも……きっとそうにちがいない。
しかし、それでもほんのすこしだけ、気になるとすれば、彼が今日までどうやって生き延びることができたかということだ。
彼が本物の、かつてラムダと会ったことのあるウィルだったとして。
ニッカたちは、ウィルがどれほど期間、船内で生き延びられるか賭けをしていたらしい。
記憶にはないが、ふたりはラムダにもその話を持ちかけ、ラムダは適当な答えを返したはずだ。
ミツカ以外はひと月以内に賭けた――と、ニッカは言っていた。
ウィルの能力と船内の危険度を量りにかければ、その答えはかなり妥当性が高い。
あのときのウィルが現在のウィルであったとしても、きっとおなじ答えを選ぶ。
なのに、彼は生きている。
ラムダは、ウィルといっしょにいた少女の姿を思い浮かべた。
噂くらいは聞いたことがある。
〈図書館〉に飼われている〈記録魔〉のこと。
ニーニヤ・ザ・レコーダー――奇妙な〈本〉に、見たものを手当たり次第に書きつけてゆくという蝙蝠人《バッティスト》の少女。
美しい容姿をしていたが、種族も違うし、そのこと自体にさして興味は惹かれない。
それよりも、彼女と目を合わせた瞬間、背筋を駆け抜けた戦慄にも似た感覚だ。思い出すだけで、いまも嫌な汗が滲む。
あれは、本当に見たまま、聞いたままの存在なのか?
もっと恐ろしいなにかではないのか?
口許がひきつり、我知らずラムダは笑みを浮かべていた。
あんなものがそばにいるというのなら、なるほど納得もできよう。
非力で無力な少年を、あれが庇護しているというのなら。
しかし、そうなると――
なぜ、そんな奴が取るに足らない少年をそばにおいているのかという、新たな疑問が湧いてくる。
男女のことか?
それとも、他に惹かれる理由でも?
わからない。考えたところで正しい答えにたどり着くとも思えない。
それでも、そんな疑問をぼんやりと考え続けることが、ラムダにはさして苦痛ではない。
いい暇つぶし、とさえ思っている。
だから、なんとなく彼らのいるほうを眺めていて、異変に気づくこともできた。
目を覚ましたウィルがどこかへゆき、ひとり残った少女を、数人の男が連れ去った。
たまたまミツカが起きたので、そのことを告げると、物凄い勢いで飛び出していった。
べつに、どうでもいいだろうに、とラムダは思った。
所詮、関わりのない人間の運命だ。
なにより、あれが――
あの得体の知れない女が、ごろつき程度にどうこうされるとも思えない。
あとでミツカになりゆきを聞こうと考えつつ、ラムダは波のようによせてきた睡魔に身を委ねた。
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