バラックシップ流離譚

異形ひしめく船上都市
葦原青
葦原青

再会

公開日時: 2021年1月16日(土) 00:01
文字数:2,836

 護身用のナイフはいつでも抜けるようにしていた。

 袖の下に隠していたものを、身を翻す勢いを利用して掌中に収める。

 豚犬グルニスキロスが跳躍――ゼラーナを丸呑みにしようと巨大な口が降ってきた。

 踏み込む。無防備な腹にナイフを振るう。ゴムの塊に切りつけたような弾力があり、刃が弾かれた。

 分厚い毛皮としなやかな肉は、思った以上の防御力があるらしい。

 自失は一瞬。能力を発動すべく集中する。


(自分を薄く引き伸ばせ。無色透明、空気みたいに……!)


 刺客に襲われ、危地を脱するのにもなれたもの。希少性操作能力は遅滞なく発動した。

 だが、グルニスキロスは迷いのない動きでゼラーナに向かってきた。


「だめか」


 繁殖期以外は食欲にのみ従い、憶えた匂いを自動的に追跡する――

 ほとんど原生生物のような生態を持つ獣相手に、価値という抽象概念に関わる能力は、やはり効果が薄い。

 むしろ能力を使った分、一手遅れた。

 素早いステップ。ナイフを持っていない左側から襲いかかってくる。かわせない。肘のあたりまで口内に収まる。

 同時に、ナイフを振りあげた。ほとんど反射的な動作だった。

 狙うは目。使っていない器官なので大した痛手にはならないだろうが、すくなくとも刃は通る。


「ブギョルルァウオオァァグォォ!」


 グルニスキロスがめちゃくちゃに首を振った。

 腕が千切れそうな痛みに呻きつつ、何度もナイフを突き立てる。

 ついに、左腕に食いついていた牙が外れ、乳白色の毛を真っ赤に染めたグルニスキロスはふらふらと何歩か歩いたのち、力尽きて倒れた。

 まだかろうじて息はあるが、手応えからして脳に達した傷もあるだろう。

 一方ゼラーナも、振り回されたせいで身体のあちこちを打っていた。

 左手の指は――動く。

 見た目は酷いありさまだったが、神経も健も大丈夫そうだ。

 それよりも、右足首を捻ってしまったらしく、こちらのほうが問題だった。


「急がないと……」


 すぐに移動しなければ、他の犬どもがやってくる。

 片足を引きずりながら、ゼラーナはその場を後にした。





 そこからは、どこをどう通ったか、あまり憶えていない。

 なるべくグルニスキロスの通りづらい道を選びたかったが、ゼラーナの通れる場所はだいたい相手も通れるので難しい。

 人と獣では、土台の身体能力に埋めがたい差が存在する。

 だが、こちらには知恵がある。

 障害物をばらまき、潜った穴を物で塞ぎ、傷の消毒ついでに匂いの強い酒を浴びたりした。

 それでも――なかなか追跡を振り切ることができない。

 視界の端にグルニスキロスの姿が映り、慌てて逃げ出すということを繰り返した。

 まずい。まずい。

 急げ。急げ急げ急げ。

 気づけば、人気のない、来たこともない場所に迷い込んでいた。


「くそっ……」


 直感は雄弁に告げている。

 危機がいまだ去ってはいないことを。

 疲労も限界に近づいてきている。


(負けてたまるか……こんなところで、犬に喰われて死ぬなんて!)


 そんな結末は許さない。

 誰にも――自分自身にさえも、惨めだと思われるのは我慢ならなかった。

 ひとまず身を隠せそうな建物を選び、潜り込む。

 レンガ造りの住居跡。三階建てだが、上階の床が抜けて一番上の天井まで見えた。

 歩くたびに埃が舞う。

 もう、何年も人が住んでいた形跡はない。

 入口の扉には閂をかけたし、窓もきっちり閉まっているので、そう簡単に入ってはこられないはずだ。

 ようやくひと息つける。

 ゼラーナは壁に背中を預け、そのままずるずると床にへたり込んだ。

 徐々に呼吸が整うにつれ、自分の置かれている状況が見えてきた。

 今度の相手は、これまでとはまるで違う。

 おそらく、ゼラーナの能力はかなりの部分まで把握されている。

 特性。発動条件。効果時間――

 すべてを考慮したうえで、グルニスキロスなどという、ゼラーナにとっては天敵ともいえる獣を使って仕留めにきた。

 そこまでして自分を殺したいのかという疑問はあるにせよ、相手の本気度は伝わってくる。

 そして――

 もうひとつ、確信めいたものがあるとすれば。


「ねえ、見ているんでしょう?」


 虚空に向かって呼びかける。

 反応を期待していたわけではなかったので、続く展開には少なからず驚きがあった。


「あんただったのか……なるほど」


 柱の陰から現れたのは、アステラ・ディキだった。

 まっすぐに伸びた肢体――この廃墟にあってなお、凛とした立ち姿には目を奪われずにはいられない。


「いつだい?……って、こないだ会ったときしかないか。私がさわったメダルを嗅がせて、あのクソ犬どもに匂いを覚えさせたんだろ」

「まずは称えます。正直、すぐに片がつくと思っていたのに、ここまで生き延びられるとは」

「私の能力を警戒してんのか、迂遠なやり方を選んでくれたおかげかねえ」

「我々には共通する神がいません」


 一瞬、なにを言われたのかわからず、ゼラーナは口をつぐんだ。


「〈幽霊船この船〉は実に雑多です。幾つもの世界からやってきた、姿も言葉も生き方も違う人々が一カ所に集う。まさに坩堝という形容に相応しい場所です。偉大なる先人は共通語を作り、大多数の種族間での意思の疎通を可能にしましたが、それだけでは到底彼らをまとめるには足りなかった」

「みんなばらばらの神サマを崇めてたからって話かい? 私にゃ縁のない話だね」


 ゼラーナは常に独りだった。

 誰にも頼らず、己の価値すらも自身で決め、積みあげてきた。

 他のあらゆるものは、利用できるか、そうでないかだ。


「信仰とは各々が持つ世界観に等しい。どの世界にも属さず、あらゆる神に見捨てられた〈幽霊船〉にあってさえ、それを捨てたり変えさせたりするのは至難の業でしょう。まとまりを欠き、互いに争えば際限なく死者が生まれる」

「そりゃまさに、日々船内で起こってることだと思うけどね」

「それは、まだ暴力での支配が理念よりも優勢だからにすぎません。言語や信仰以外に秩序をもたらし得る理念として、トブラック・カンパニーの創始者ウィークリー・トブラックは経済を選択しました。それからおよそ百年――想像できますか? 百年です。百年積み重ねて、船内のあらゆる種族がトブラックの理念を知るに至りました。いまだ理想からは遠くとも、それが我々の成果なのです」


 アステラの目に、明確な殺意の色が浮かんだ。


「ゼラーナ、あなたは――あなたの能力は、我々の築きあげた百年を一瞬で無に帰しかねない危険なものです。この場で降伏し、能力の封印を受けるなら命までは取りません。でも、もし断るなら――」

「ふざけるな。問答無用で殺しにかかってきたクセに、いまさら慈悲をちらつかせるのか!?」


 ゼラーナは勢いよく立ちあがり、アステラを睨みつけた。

 傷の痛みを忘れるほどに、彼女は激昂していた。


「誰も……誰も私を助けてくれなかった。だからずっと、私は独りで生きてきたんだ! この力は、私が生きるために手に入れたモンだ! 好きなように使ってなにが悪い!?」


 アステラが小さく肩をすくめた。


「決裂ですか。もうすこし賢明かと思っていましたが」

「ほざくな、トブラックの犬め!」


 ナイフを振りかざし、ゼラーナは突進した。


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