「犬、犬。猟犬を使役してはいますが、私自身は犬ではないと思います」
「まともに返すな、馬鹿!」
真面目なのかなんなのか。
すくなくともゼラーナの周囲にはいないタイプの女だった。
刃物を前にしても動揺すらしない。
腹が立つほどの余裕。
それが、生きるのに必死ではないと、ゼラーナには映った。
必死さを必要としなかった者は汚れる必要もない。
それが眩しく、同時に妬ましい。
だから、消えて。消えてくれ。私の目の前から。
「おっと。近づかせません」
アステラが腕を払う仕草をすると、前方の床が爆ぜた。
ゼラーナは慌てて足を止める。
「な、なにを――」
「見えませんでしたか? つくづくあなたは荒事に向いていないらしい」
アステラが右手を持ちあげる。
手袋に覆われた指のあいだに、キラリと光るものがあった。
「……針?」
「はい。これ自体に発火・爆発する機能があり、爆砕針と呼ばれています」
手の内を晒すとはどういうつもりか。
恐怖を煽ろうとしているのなら、馬鹿にしすぎというものだろう。
呼吸を整え、横に跳んだ。
柱の陰に入った瞬間、逆方向に動く。
そのまま駆け抜けると予想していたアステラは、ゼラーナに横顔を向けている。
その白い頸を狙ってナイフを投げた。
吸い込まれるように白刃が飛んでゆく。
しかし、的に到達する前に金属音が響き、あえなく弾かれた。
「あなたの能力を鑑みれば、あなたがふれた物にふれるのも、警戒してしかるべきです」
アステラが、左手で針を放ってナイフを逸らしたのだ。
それを見届けながらも足は止めない。
相手はトブラックの刺客。まともにやりあって勝てるとは、はなから思っていない。
目指すは建物の外へ通じるドア。間に合うか?
手をのばす。もうすこしでノブに指がかかる――そのとき、なにかが激しくドアにぶつかる音がした。
間隔をおいてもう一度。さらには低い唸り声までが聞こえた。
豚犬が来たのだ。
「逃げられると思いましたか?」
ゆっくりと、アステラが近づいてくる。
ゼラーナは、べつの出口がないかと左右を見回した。
あったのは、奥へと続く通路が一本。
外へいけるかどうかはわからないし、当然警戒もされているだろう。
だが、それでも――
どうせ警戒されているならと、あえてまっすぐそこを目指した。
進路を遮るように針が放たれ、爆発する。爆炎を迂回し、なおも走った。
「呆れたあきらめの悪さですね」
さらに爆発が起こる。全力で走り続けていたら命中する距離。ぎりぎりで速度を落としたが、衝撃を避けきれずに転倒した。
すぐさま起きあがる。這いずるようにして進む。またしても爆発。
「本当に、あなたは」
ため息混じりにアステラは腕を振るった。
そこで、逃げに転じてからはじめて、ゼラーナは彼女のほうへと踏み込んだ。
何度も攻撃されて、なんとなく相手のクセのようなものがわかってきていた。
圧倒的な格下を雑に仕留めようとしたせいだろう。
手をのばし、腕で針を受けた。
すぐには爆発しない。
やはり。ナイフを針で弾いたとき、そうではないかと思ったのだ。
針は、衝撃等の外部の力に反応しているのではなく、アステラ自身の意思によって爆発する、しないが決定されている。
そして、爆発するまでの猶予もまた、あらかじめ彼女によって決められ、あとからの変更は効かない。
ゼラーナは針を腕から引き抜き、上に向かって投げた。
「なっ!?」
爆音。
老朽化が進んでいた建物である。
穴のあいていた上階の床や、天井の一部はあっさりと崩れた。
ゼラーナは天を仰ぎ、降り注ぐ瓦礫に目を向けた。
その口許に、うっすらと笑みを浮かべて。
轟音とともに埃と土が舞いあがり、一帯をしばし覆い隠した。
それらが晴れる。
ゼラーナは目を瞬く。
頬に生暖かい液体が滴った。
まだ、生きている。
彼女を押し倒し、自らの身体で崩落から庇った者がいたのだ。
「アステラ……」
名を呼ぶと、女は安堵したように微笑んだ。
それから、己の行動と、安堵したこと自体への困惑の色を浮かべ、目を泳がせた。
「なん……で……私は……」
「知ってたはずでしょ? 私の能力は、接触が発動条件だって」
それは、ゼラーナ自身も例外ではない。
己の希少性を低下させ、群衆に紛れるという使い方ならしょっちゅうやっている。
今回はいつもの逆――希少性を瞬間的に高めたにすぎない。
そうすることで、アステラにゼラーナを庇わせたのだ。
めったに使わない理由は単純である。
結果の予測が困難だからだ。
希少性操作能力の影響には個人差がある。
親切にする程度の好意ならば問題ないが、狂信と呼ぶレベルまでいってしまった場合、たいがいは厄介なことになる。
監禁されそうになるくらいならまだましなほうで、中には「我が愛は死をもって完成する」などとのたまう輩に無理心中を迫られたこともあった。
だから、アステラに対しても使うのも正直賭けだったのだが、どうやらうまくいったようだ。
そして――
この距離ならば、直接ふれることができる。
「私を守りなさい」
アステラの胸許に手を置き、ゼラーナは叫んだ。
「私はあなたのすべて。私はあなたの命。全身全霊をもって私に尽くし、最後の血の一滴が枯れ果てるまで仕えなさい」
「仰せのままに」
アステラはゼラーナの手を取り、あらゆる迷いから解放されたかのような晴れやかな表情で答えた。
いまこの瞬間、アステラの中でゼラーナは、特別の中の特別となったのだ。
「グルアアアアッ……!」
ついにドアが破られ、グルニスキロスが侵入してきた。
最初の三頭と、どこかで合流したと思しき二頭。
狂ったように吼えたて、ゼラーナに向かって突進してくる。
「下がっていてください」
犬たちの前に、アステラは立ち塞がった。
まっすぐに背をのばし、まるで指揮でもするように。
ひと振り。ふた振り。三振り。
爆砕針は、あやまたず五頭すべてを貫き、アステラとすれ違ったところで爆発した。
血と肉片が床をまだらに染め、むせかえるような異臭が漂った。
「大丈夫ですか?」
アステラはすぐにもどってきて、ふらつくゼラーナの身体を支えてくれた。
彼女の手つきはどこまでも優しく、見つめる視線は慈愛に満ちていた。
「ひどい傷です。すぐに治療を」
「ええ、そうね……ありがとう」
ふいにいたたまれなくなり、ゼラーナはアステラから目をそらした。
このうえなく頼れる味方を手に入れた。
それは、これまでずっと、心のどこかで願い続けていたものだったのかもしれない。
なのにどうして、こんなに胸が苦しいのだろう。
自分に向けられる想いを感じるたびに、どうして涙があふれそうになるのだろう。
「どうしましたか。そんなに痛みますか?」
「ううん……ちがう。ちがうの……」
ほっとしただけだと、ゼラーナは笑った。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。
お話のストックが尽きたため、『バラックシップ流離』はしばらくお休みします。
いずれかならず再開いたしますので、気長にお待ちいただけると幸いです。
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