その顔は笑っていた。
考えてみれば、いつもにこにこしているか、さもなくば困ったように笑っている以外の記憶がほとんどない。
いや、彼女も人間であるからには、当然それ以外の表情も浮かべているはずなのだが、印象に残っていないのだ。
――レフィア。
彼女とは、もう一年ほどになる。
客に無理やり酒をすすめられ、前後不覚の状態で路地裏に連れ込まれそうになっていたところを助けたのがきっかけだった。
レフィアはゴミの山に尻をうずめた姿勢のまま、とろんとした目でクロフを見あげ、
「あ~、よく右隅の席に座っているおにいさんですね~。いつもありがとうございます~」
などと、状況把握のまるでできていないセリフを吐いた。
己が男どもにとって、どれほど劣情をかきたてる肉体を有しているか、自覚がないのだろうかと疑った。
弄んでやるつもりで、家に連れ帰った。
すこしは痛い目を見て、自分の愚かさに気づいたほうがこいつのため。そんな言い訳を考えながら。
水を一杯飲ませると、赤子のように「ふへっ」と笑い、「ありがとうございます~」とまた礼を言われた。
どうしたものか、と考えた。
いま、こいつに手を出したら、あの店にいきづらくなるのではないか。
脅して黙らせるか? そう難しいことではない。
だが、それで彼女が店を辞めでもしたら、もうあの歌が聴けなくなる……。
そこではたと気づき、クロフは呆れた。
またしても言い訳だ。
それも、今度は怖気づいた自分を正当化しようという、ひどくみみっちいたぐいの。
……いや、そうではない。
気持ちが萎えてしまっただけだ。
この女が、あんまりにも無防備に笑うものだから毒気を抜かれてしまった。
頭を振る。酔いは醒めていた。そして、なんだか妙に疲れていた。
どうでもいいという投げやりな気分と、彼女の笑顔を見ながらまどろみたいという誘惑に、足許を取られてしまっていた。
それからは、思い出すだに恥ずかしい。
十代の小僧かというような、実に青臭いやりかたで彼女との距離を縮めてゆくはめに陥る。
結局、愚かなのはクロフひとりだったわけだ。
相変わらず、俺は愚かだ――クロフは自嘲する。
実に場違い。
いままさに仲間の傭兵が漫地漢の操る土の刃に切り裂かれているというのに、のん気に女のことなど考えているとは。
しかし、色恋に関わる発想というのは、それ自体死に近いと言えるのかもしれない――などとまたしてもくだらない思考にとらわれ、口許を歪める。
それだけ、ぞくぞくするような相手だということだ。
トブラックの雇った精鋭が、まるで問題にならない。
〈四大精霊〉の強さ。どうやら本物らしい。
ハッ――喉の奥から歓喜の塊が溢れた。
奴らなら、ほんとうに俺を殺せるかもしれない。
この俺を、運命とめあわせてくれるかもしれない。
期待に胸が躍った。
気がつけば哄笑しながら飛び出していた。
「バッカ野郎! 無茶がすぎんぜ!」
とたんに、全身に力がみなぎった。
まるで丹田のあたりで火が燃えさかっているかのようだ。
振り返ると、ルーティカがクロフに人差し指をつきつけていた。
彼女の能力――さっきは銃を暴発させていたが、なるほど、エネルギーの増幅がその正体か。
「支援、感謝する!」
足許からのびてくる土の刃を左右にステップしてかわしながら前進。
漫地漢がわずかに目を見開く。その瞳に宿るのは、歓喜の光だ。
お前もか。お前もこの戦いを福音ととらえるのか?
クロフの手の中で、槍が大きくしなった。
蛇のように鎌首をもたげたかと思うと、複雑な曲線を描いて漫地漢へとのびてゆく。
漫地漢は、土を壁にしてガードした。同時に、壁の下部から錐状の枝が何本も生え、おそろしい勢いで発射される。
回避するとき、嘘のように身体が軽かった。錐の軌道もはっきりと見えた。
いい能力だ。この先もずっと味方でいてくれるというなら、さぞ頼もしいことだろう。
風が追ってくる――順風陣!
振り向きざまの一閃。だが、かわされる。さすがに高速での戦闘には一日の長がある。
打ち込まれるこぶし。手甲でさばく。反撃をと思ったときには、すでにそこに順風陣はいない。
背後から土の刃。かわす――が、かわした刃の中から透明な女の腕がのびてきた。
水潜華! 順風陣が接近したのは彼女を運ぶためか。
ふれられれば内部から肉体を破壊される。まさしく死の抱擁。間一髪で逃れる。何度か槍を突き出したが、不十分な態勢だったため当たらない。
敵は警護チームを挟撃できる優位を敢えて捨て、クロフひとりを確実に仕留めにきている。
まったく、光栄という他ない。
思わずこぼれた笑みは、傍からはさぞかし獰猛と映るにちがいなかった。
だが、そこでまたしても違和感に襲われる。
本当にクロフを倒したいなら、まずはルーティカを攻撃して能力を中断させるべきではないか?
まさか、そのための手段がべつに……?
「備えろトノヤマ、ルーティカ!」
クロフが警告を発した次の瞬間、生き残っていた傭兵たちが床にへたり込んだ。
トノヤマとルーティカも、どこか気の抜けたような表情で片膝をついている。
漫地漢のあけた床の亀裂。
そこからゆっくりとせりあがるようにして、それは現れた。
一見して人とは思えぬ、異様な風体だった。
灰色のずだ袋――いや、ちがう。
ボロボロのローブを着こんだうえに、まじない紐を何重にも巻き、とどめとばかりにまがまがしい文字の書かれた呪符をべたべたと貼りつけている。
背丈は大したことはないが、背中と思しき部分がえらく盛りあがっており、身体を丸めた姿勢を取っているのだとすると、案外大柄なのかもしれない。
そして、なにより神経を逆なでするのは、それが動くたび、ズルズルザリザリという、なにかをひきずるような音がすることだった。
「こいつは……なんだ?」
己の口から呻くような声が漏れたことに、クロフ自身が驚いた。
自分でも動じないたちだと思っていたが、この相手は異様すぎた。
「あれが……〈四大精霊〉最後の一人、滅火獣……たしか名前は……ボドクとかいったはずデス……」
滅火獣が現れたとたん、場に異常が起きていた。
多くの者が戦意を失い、クロフにかけられていたルーティカの能力も消えた。
解除されたというより、中和されたというほうが近いか?
「そうか……なんてこった……畜生……ッ!」
ルーティカの声に力がない。
壁に手をついてなんとか立ちあがった彼女は、驚愕と恐怖がないまぜになった表情を浮かべ、口許をひきつらせた。
「奴の能力……オレとは正反対の力って……ことみたいだな……」
「エネルギーを増幅させるのではなく、減らすということか?」
「ああ……そんで、しまいにゃゼロになる……まさしく火を滅するんだ……しかも、オレよりはるかに強力で……こっちの士気とか戦闘意欲まで、根こそぎ奪ってくらしいぜ……」
青い肌がさらに青ざめるという世にも珍しい光景を、クロフは目の当たりにした。
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