夜の闇をつんざき、ウィルたちの耳に飛び込んできたのは悲鳴だった。
絶望と恐怖。それに後悔の混じった男たちの声。
いったいなにが起きている?
限界が迫る両脚に鞭打ち、ウィルは走る速度をあげた。最後のほうは強引に木立をショートカットし、声のした場所へと抜ける。
そこでウィルが見たのは、信じがたい光景だった。
血まみれの男が四人、地面に倒れている。
そのうちのひとりは、鋭い爪のある獣の脚に身体を押さえつけられていた。その獣とは、昼間レムトたちが戦った、あのビークだった。
「ひっ……ヒィィッ!」
尻もちをついた男が後ずさりしながら剣を振り回した。顔に覚えがある。ホドロだ。
ニーニヤは、ビークのかたわらにいた。
美しい毛並みを持つ背中に手を置き、怯える男を冷ややかに見おろしている。
ウィルの到着に気づくと、一瞬嬉しそうに顔をほころばせたが、すぐにしかめっ面になって睨んできた。
「遅い!」
「どういうことだよ、この状況! っつか、なんでビークが!?」
危険ではないのか。はやく逃げろと叫ぶべきかとも考えたが、どう見てもこれは、ビークがニーニヤの味方をしてホドロたちと戦ったとしか思えなかった。
「ボクが召喚した」
「はあ!?」
ウィルの混乱に拍車がかかる。
つまり、これをニーニヤが呼び出したと?
彼女の言葉は、そうとしか解釈できない。
でも、どこから? どうやって?
「ええい、畜生ッ!」
ビークに立ち向かうよりは、と思ったのだろう。鬼のような形相で、ホドロがこちらに向かってきた。
ウィルは身構えようとしたが、それよりも早く、ミツカがあいだに割って入った。
突き出されたホドロの剣を、ミツカの鎖が生き物のようにうねって弾き飛ばす。くるくると回転しながら剣は落下し、地面に突き立った。ヒュウ、とニーニヤが口笛を吹く。
「すごいね。鎖を操るのがキミの能力なのかい?」
「ちがうよ」
狩りのときから、ミツカは一度も能力を使っていない。彼女の能力は強力だが、能力なしでもビークと渡り合えるだけの実力を有している。
別の言い方をすれば、ビーク程度では能力を使うまでもなかったということだ。そんなミツカを、ビークに敵わなかったホドロがどうこうできるはずもない。
「ウィル君、大丈夫?」
「あ、ああ……」
思わず顔をそむけた。
感謝よりも先に、悔しいという気持ちがきてしまった。
わかっていたはずだ。ミツカは、ウィルよりもずっと強い。
それでも傷つくのは、誰よりもウィル自身が、いまの自分を許せないと思っているからだ。
「アワ……アワ……ウアワアアアァァァァァァァ!!」
前門のミツカ、後門のビーク。
追い詰められたホドロは、狂ったような叫びをあげて左へ――つまりジャングルへと飛び込んでいった。
目の前にある脅威に比べれば、ジャングルのほうがマシだという判断はわかるが、やはり無謀だろう。一度抜けられたからといって、そう幸運が何度も続くはずもない。
ザキザキ……ザキ……ザキザキ……
ここにくるまで何度か聞いた、謎の音が響き渡った。
今度は、かなり近い――というか、すぐ上だった。
道の両側の木立の上を、うっそりと影が通り過ぎてゆく。
それは、ウィルの知るどんな生き物にも似ていなかった。
いや、そもそも生き物といえるのかさえ、怪しく思えた。
一見ヘビか、巨大な芋虫のようでもある。
しかし、よくよく見ると、それは細長い針を束にして井桁状に組み、それをいくつも連ねたような姿をしていた。
移動する際は、それぞれの井桁をゆっくりと回転させ、針の先を樹にひっかけながら進む。
ザキザキ……という、あの不気味な音は、針同士がこすれ合うときに発せられるものらしかった。
軋むようなそれは、どこか笑い声にも似て、聴く者の神経を逆撫でする。
樹上を蛇行する井桁の怪物は、明らかにホドロを追っていた。
動きはゆっくりに見えるが、巨大さも相まってかなり速い。ジャングル内を駆ける人間など、簡単に追いつかれてしまうだろう。
グルル……というビークの唸り声で、ウィルは我に返った。
(シッ!……静かに!)
くちびるの前で人差し指を立て、他のふたりに目配せする。
ウィルたちが音をたてないよう身体を低くし、息を殺すと、ビークも真似をして地面に伏せた。
ザキザキ……ザキザキ……ザキ……ザキ……ザキザキ……ッ!
ほどなくして、ホドロの断末魔がウィルの耳に届いた。
木立に隠れて見えはしなかったものの、なにが起きているかは知覚できた。
井桁を構成する針は伸縮自在で、怪物はそれを伸ばして獲物をとらえる。頭上から矢の雨を射かけられるようなもので、回避はとても難しい。しかも貫通力がまた半端なく、革鎧程度なら簡単に貫くことができるようだ。
針には毒があるのか、刺された獲物はみるみる動きが鈍ってゆく。
動かなくなったところで、井桁はさらに数十本もの針を打ち込んだ。ああやって、獲物から養分を吸いあげるのだ。
息を殺して、一分。二分。
食事を終えた井桁の、軋むような移動音が徐々に遠ざかってゆき、ふたたび静寂が訪れた。
「すごかったねえ」
ウィルとミツカがほっと息をつく横で、ニーニヤがいかにものんきな口調で言った。
「なんだろうね、アレは。あんな生き物見たことないよ。いや、もちろん、ここはボクたちの知らない世界なんだから、そういう生き物がいるのは不思議じゃあないんだが、膨大な〈億万の書〉のどこにも類似するものが見出せない。これは、稀有なことだよ」
「ニーニヤ」
「さてさて、いったいどう分類したらよいものか。このままではあまりに情報が少なすぎるね。とりあえず独自の項目を立てるとして、まずは呼び名を決めないと。枝のようなものでできていて、かたちとしては巨大な芋虫のようでもあるから、ブランチ・クロウラーというはどうだろう?」
「ニーニヤ!」
「おっと。なんだい、ウィル。大声なんか出して」
「なんだいじゃねえよ。お前、そんな力があるって隠してたのか」
「召喚術のことかい?」
「そんなことができるなら、護衛なんていらなかったんじゃあないのか」
「そうだねえ。もし、そうなら、どうする?」
「どうするって……」
ウィルは絶句した。
お情けで護衛を任されていたとでもいうのか。だとしたら惨めすぎる。
「なーんてね。冗談さ」
「んなっ!?」
「この力は、好き放題使える類のものではないんだ。それに、ボク自身はあくまでか弱い乙女だしね」
「奥の手ってことかな?」
「見られてしまったから白状するが、そうだね。〈図書館〉の連中にも秘密さ」
ニーニヤがミツカにうなずいてみせる。
「もしかして、私がいたらマズかった?」
「不可抗力だよ、気にしないで。でも、お仲間には伝えないでくれるとありがたいかな」
ニーニヤは人差し指を一本立ててウィンクした。
軽く流してはいるが、実際のところ、あまりよろしくない状況なのだろう。
ミツカがどうこうという話ではない。能力を他人に知られることは、常に一定のリスクを伴う。
稀少だったり強力だったりすれば利用しようとする人間が現れるし、敵対関係に陥れば対抗策を講じられてしまう可能性も出てくる。
戦って名を売りたい傭兵や死骸漁りならば、ある程度は覚悟の上だが、ニーニヤはそうではないのだ。
「そこまで追い詰められてたってことなんだな」
「ウィル……キミも、そんな顔しないで。こうして助けに来てくれただけでも、ボクは嬉しいよ」
ふわり。
芳しい香りが広がる。
夜の闇よりもなお昏い、少女の髪が視界で踊る。
気づけば首に両腕をまわされていた。
ありがとう――耳許での囁き。
慌てて距離を取り、囁かれた側の耳をおさえる。
手のひらに、異様なまでの熱を感じた。
ウィルを見つめる少女の口許に、いたずらっぽい微笑が浮かぶ。
「そ、そりゃあ……っ! いくだろ!……助けには……さあ……」
「それがキミの役目だから?」
「そ……そうだよっ! 今回は……その……なにもできなかったけど……」
「ふぅん」
ニーニヤは「ま、いいけど」と呟くと、ウィルに背を向けた。
なにがいいのか、あるいはよくないのか。
ウィルにはさっぱりわからなかった。
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