空は厚く、黒く雲を濃くしていた。
鴇祭の際、舞台として使われる神社。鴇を祀り、祈りを捧げる聖なる場所。
その場所は今、一人の少年に祈りを捧げるためにある。
昨日までの祈りとは違う。安息なる旅立ちができるようにという祈り。
悲しみに包まれた祈りだ。
「着いたね、ワタルくん」
ツバサが声をかけてくれる。ここまでくる道すがら、ツバサはずっと俺に話しかけてくれていた。彼女だって辛く、苦しいはずなのに、俺を元気付けようと精一杯に話してくれていたのだ。
「ああ、そうだな」
だから、俺も何とかそう返した。
神社は中が集会場のようになっており、葬式を行うときには鯨幕が取り付けられて、立派な式場になる。そのときでも、奥に安置された鴇の像は特に移動させたりはしない。それは『人は死んだら鳥になる』という言い伝えのように、鳥の仲間入りを果たせるようにするためなのかもしれなかった。
神社には既に人が集まっていた。ジロウくんのために、大勢の人が祈りに来ている。
だけど、本当はこんなこと、したくはなかったはずなのだ。
堂内には、パイプ椅子が幾つも並べられていた。参列者たちは、好きな場所に座って式が始まるのを待っていた。前方にはジロウくんが眠っている棺と、その隣に黄地家のための席があった。母親はじっと座っていて、父親は参列者たちに来てくれたことへのお礼を述べている。
しかし、タロウの姿はなかった。
「タロウくん、いないね」
「来たくないのかもな。……信じたくないのかもしれない」
「最後まで……来ないつもりかなあ……」
「さあ……。でも、たとえ来なくても責められないよ。ただの友達の俺でさえ、来るのが辛かった。認めるのが辛かったから」
「……私もだよ……」
彼は、認められるのだろうか。弟にもう二度と会うことが叶わないという現実を。
五分ほどが経ち、式場の椅子に空きがなくなった頃、父さんが堂内に入ってきた。法衣を身に着けたその姿は、この式場に相応しい貫禄を備えていた。
いつか父さんは、この仕事をお前も継ぐんだぞ、と口にしていた。だけど、それは俺にはどだい無理な話だろうと思ってしまう。俺にはあんな風に振舞う強さなどない。気に入らない父親だけれど、それでもやはり父さんはすごい人だった。
父さんは、用意された座布団の上に正座すると、お経を読み始めた。頭の中が侵されるような言葉の羅列。自然と涙が目元に溜まり、そして零れていく。
ふと、右手を握られているのに気付いて隣を見てみると、ツバサもまた静かに涙を流していた。ジロウくんの遺影をじっと見つめながら。
向こうの席に、ヒカルとクウもいた。二人もまた、寄り添うようにして悲しみを共有しているようだった。
そう、この悲しみはみんな一緒だ。誰もがみな、ぽっかりと穴の空いたような悲しみを共有している。
読経が終わると、家族たちから別れの言葉が読み上げられた。父親は、
「お前は元気がいっぱいで、いつもお兄ちゃんがしている遊びをやりたがったな。その度に、お父さんが一緒に遊んでやったよな。最近は、お兄ちゃんの友だちも、お前と遊んでくれるようになって、本当に毎日楽しそうだったよな……」
楽しい思い出の数々。それらを一つ一つ思い出しては、語りかける。そうして全てを語り終え、母親に後を譲る。
「ジロウは優しくて、明るい子で……私が家事をしていると、いつだって手伝おうとしてくれたんですよ……でも、終わったら遊んでね、と言うのも忘れなくて……わんぱくなところもありました……自慢の次男でした……」
母親の話は、最後まで続けられなかった。ハンカチで目元を覆ったまますすり泣き、そのまま席に戻らざるを得なくなってしまった。いかに彼女の悲しみが深いものかがよく分かる。分かりすぎて、苦しかった。
焼香の時間になった。親族から順番に並び、香を落として、ジロウくんのために祈る。繰り返される祈り。
俺とツバサの番になった。箱の中から香を摘んで、落とす。それを三回繰り返してから祈った。
どうか、安らかに。
鳥のように、空へ羽ばたいていってくれ。
それもまた、伝承の一つ。
人は死んだら、鳥になるのだから――。
*
通夜が終わり、参列者たちは帰っていく。俺も帰ろうと思ったが、何となくまだ残っていたいような気分にもなった。ツバサも帰りづらかったようで、ほんの少しだけ席に残って二人で話し合った。
「……なあ、ツバサ。覚えてるか? ジロウくんが初めて俺たちと遊んだときのこと」
遺影に目を向けながら囁くように聞くと、ツバサはこくりと頷く。
「覚えてるよ。初対面のときはタロウくんの後ろに隠れていたのに、遊んでるうちにすんなり打ち解けていってね。……日が暮れる頃には、もうすっかり私たちの仲間入り、してたんだよね」
「ああ……そうだった。それからは、タロウにせがんでまで俺たちと一緒に遊びたいって言ってたらしいよな」
「あの子の無邪気な笑顔。なんか、それが今はすごく昔のものだったような気がする……」
いつからだろう。いつからあの笑顔は遠のいていったのだろう。
そして、帰れなくなったのだろう。
「……ねえ、ワタルくん」
「……うん」
「……ずっと、隣で笑っててね。お願い……」
それは、とても悲痛で。
とても純粋な、願いだった。
「……そんなの当たり前だよ、ツバサ」
俺は優しく、彼女の頭を撫ぜる。
彼女はそれに身を任せたまま、ずっと俯き、震えているのだった。
*
俺たちが席を立ったとき、もう既に他の参列者の姿はなくなっていた。どうやら相当長く滞在していたようだ。
「……俺は一人で帰るよ」
入り口まではツバサと一緒に歩いていったのだが、先に帰ってもらうことにした。去り際、ツバサは悲しげに微笑んで、
「あんまり沈んじゃ、ジロウくんも困るからね」
そう言って、帰っていった。
その通りだった。
「分かってる、けどな……」
やはり、近しい者の死というものは重い。
心を掻き乱されるほどに。
「……ん……」
神社の裏手から、何やら話し声が聞こえてきた。どうやら父さんの声らしい。誰かと話しているようだ。
気になって動けなくなった結果、俺は盗み聞きをするような恰好になってしまう。
「……では、遺体は任せましたぞ」
「はい。天の家が間違いなく送ります」
「ああ。そうしてやってくれ」
「……はい」
話し相手は、ヒカルのお祖父さんのようだ。村で一番偉い人物である。恐らく、ジロウくんの遺体を父さんが引き取り、これから然るべき処理をするのだろう。
思えば、俺はこの村が死者を火葬するのか土葬するのかも知らない。墓は森の中にあって、子どもは立ち入ることすら許されていない。墓石を見た事すらないし、きっとそれは、この村にいる殆どの人がそうなのではないだろうか。
そう、俺は母さんの墓参りにすら、行けたことはないのだ。
「……墓参りくらい、いつか行けるといいな」
そっと立ち去りながら、俺はそう呟いた。
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