放課後になり、カナエさんが別れの挨拶をする。九人のクラスだと、一人の空席でも目立つというのに、ここ最近は何人も欠席している。どことなく教室が寂しいのも当然のことだろう。
「タロウくんはもうちょっと時間がかかるかもしれないけど……ワタルは明日にでも、来てくれればいいのにね」
クウの言葉に、ツバサちゃんは頷き、
「うん。私、今日はお見舞いに行ってくるね。元気出してもらって、明日は連れてくるから」
「おう、よろしく頼んだ。ワタルがいないと明日の体育、張り合いがないから」
「ふふ、分かった」
ツバサちゃんは健気に微笑む。
「私からもよろしくお願いするわ」
後ろの方から声がして、振り返るとそこにはカナエさんがいた。
「授業中も殆ど寝てるだけだけど、あの子がいないと寂しいのは事実だし」
「あはは……それは注意しておきます」
ツバサちゃんは、今度は苦笑いする。
「ねえ、ツバサちゃん。僕らもお見舞いに行こうか?」
「こら、ヒカル」
「いてて」
クウに耳を引っ張られる。何故だ。
「こういうときのお見舞いってのは、邪魔者は入っちゃいけないの」
「あ、あの……クウちゃん……」
恥ずかしそうに体をくねらせながら、ツバサちゃんはクウの言葉を遮る。
「あ……ゴメンゴメン」
今更謝っても遅いのだが。
「ワタルくんのことは、ツバサちゃんに任せましょう? きっと連れてきてくれるわ」
カナエさんもそういうので、僕はそれ以上は何も言わず、ツバサちゃんに任せることにした。
明日には、ちゃんと来るだろう。
ツバサちゃんは、じゃあまた明日、と僕らに言い、教室を出て行こうとする。そのとき僕はふと思いついて、
「あ、ツバサちゃん」
「うん?」
「ツバサちゃんは、黒スーツの男の人って見たことある?」
ツバサちゃんはその問いに首を傾げて、
「ううん、ないよ」
「そっか。ごめん、じゃあまた明日」
「はーい」
ツバサちゃんは、手を振って教室を去る。後には、僕とクウとカナエさんの三人だけが残された。
「じゃあ、僕らもそろそろ帰ろうか」
「うん、そうしよ」
クウは笑いながら同意する。
「ちなみに、先生も黒スーツの人なんて見てませんよね?」
「ええ……いたら目立つでしょうしね。見たことはないわ」
「そうですか。……それじゃあ」
「あ、ねえ、ヒカルくん」
「はい?」
「何か、気になることでもあるのかしら」
「ああいや、別に……。ただ、見た人がいるらしくて。やっぱり珍しいから、僕も気になったんです」
「まあ、確かにね」
カナエさんはくすくすと笑う。
「……ねえ、二人とも。ちょっとだけ、時間ある?」
「え? まあ、何も予定はないですけど」
「ヒカルが作ってくれないからねー」
クウが余計なことを言うのは無視する。
「……本当に、ちょっとだけでいいから。私の話に付き合ってくれるかしら。ワタルくんのところに行かれても、困るしね」
カナエさんは、悪戯っぽく笑いながら、そう言った。
*
――これは、とても昔の、私の友達の話。
その子は、とても温かい家庭に生まれてね。お父さんもお母さんもとても優しい人で、毎日幸せに暮らしていたの。幼心に、こういう暮らしがずっと続いていくなら、私って世界一幸せ者だなと、そう思ったりしていた……みたい。
成長するにつれ、その子はいつか、自分の方が両親を幸せにしたい。何か一つでも恩返しがしたいと思うようになっていった。そのために、早く大人になりたいと、そう思うようになっていった。
けれど、その子が十九歳の時。もう少し、あと何月かで成人するというとき。
両親は、死んでしまった。
その時代、村では伝染病にかかってしまった人が何人かいたみたいでね。両親も運悪く、伝染病に感染してしまった。現代の医療レベルなら、治せる病のはずなんだけど、その時代には治す手立ても、……そもそも治そうという考えもなかった。それは不治の病であり、拡がる病だった。両親はただ隔離され、死んでいった。その子は……両親の最期を看取ることすらできずに、わずか二週間の間に、失ってしまったのよ。幸せだった家庭を、伝染病によって。
その子は一人ぼっちになってしまった。与えられた仕事を始めるようになったけれど、その仕事ぶりを見てくれる両親はもういない。恩返しする対象はもういない。それは、その子にとってはあまりにも寂しいものだったと思う。きっと、生きる意味を失ったまま、ただ動き続けていた、そんな表現がぴったりなのかもしれない。
そんなときだった。彼女は偶然にも、良く似た境遇の人を見つけたの。そしてその人に、手を差し伸べられたの。それは彼女にとって、暗闇に射した一筋の光みたいに見えたんじゃないかな、きっと。
その人は、同じ伝染病で最愛の女性を亡くした男の人だった。失意のどん底にある中で、その人もまた、彼女の境遇を知って手を差し伸べたみたい。彼女に触れることで、彼女を救うのと同時に、自分も救われるんじゃないかという希望を持って。もちろんそれは恋愛ではなかった。ただ互いのことを打ち明けて、励ましあう。それだけの関係だったけれど、やっぱりそれは一筋の光だったはずよ。
二人は同じ悲しい過去を共有し、そして立ち直った。いや、立ち直ることに決めた。そのために、区切りをつけることにしたのね。過去に区切りをつける。二人は難しいことだけれど、そうすることを決心したのよ。この村において、過去を切り離すというのは、本当に難しいことだとしても。
でも、その矢先。
彼は血を吐いて倒れた。
伝染病ではなかった。ただ、彼の家系はもともとガンに侵されやすい血筋だったらしく、不運なことに、彼も例外ではなかったの。どうしてもっと早く見つけられなかったのかと私も思ったけれど、その人は自分の体のことよりも、亡くなった妻のことを考えていた。だから自分の不調なんて、ほとんど気にかからなかったんでしょうね。ある意味すごい人だわ。
その子は泣いた。男の人のためにも泣いたし、自分のためにも泣いた。また寂しくなるのは嫌だと。あなたと交わした約束のために生きてこれているんだと。きっとそのとき、もう彼女は愛を感じていたんじゃないかな、男の人に。彼は当然、それに気付くこともなかったでしょうけど。
男の人は言ったわ。その約束を果たすときには、どうせもう全部終わっているんだと。だから、悲しむことはないんだと。決して寂しくはさせない。彼の言葉で、彼女は苦しみながらも、何とか現実を受け入れることができた。だから、最期の日までを楽しく生きようと、そう思うことにした。
結局、彼女は芽生えてしまった愛を伝えることもできず。男の人は、妻のことだけを思ったままで、全てが終わってしまった。幸せだったのか、それとも不幸せだったのか。奇妙な関係はそこで終わりを迎えた。それが、その子のお話。
*
そうして長い物語を話し終えると、カナエさんは感想を求めるように、こちらを見つめてきた。
「……どうだったかしら」
「……ええと」
これは、きっとカナエさんのお話。
友達という身代わりを以って語られた、カナエさん自身のお話なのだ。
だから、僕らはカナエさんの知られざる過去を知ったのだ。
毎日見せてくれる笑顔の裏に隠された、悲しい過去を。
「歪んだ関係なのかもしれませんね。でも、そうして続く関係は、その人にとっては掛け替えのない、拠り所だったんだろうと思います」
「……ええ。私もそう思う」
「少なくとも、二人でいる間は幸せだったんじゃないですかね。きっと」
「二人で……何もかもを忘れている時間は、きっとね」
過去を懐かしむように、カナエさんは言う。
彼女が懐かしむその男とは、一体誰だったのだろうか。
「クウは……どう思った?」
僕は隣にいたクウに、そう聞いてみた。
「え? ……うん、切ない話だったなって」
そう答えたクウは、どこか呆けていたようにも思えた。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない」
クウは照れたように笑う。
「でも、どうして突然、僕たちにそんな話を」
純粋に抱いた疑問を、僕は口にしてみる。するとカナエさんは、やはり微笑みながら、
「だから、二人がワタルくんたちの邪魔者にならないように。ほら、もうこんな時間」
見ると確かに、あれから三十分ほどは経っている。始めはなんとなく聞いていただけだったが、いつのまにか聞き入っていたようだ。
「それに」
カナエさんは続ける。
「その子みたいな恋じゃなくて。素敵な恋をしてほしいなって、思ったりもしたから」
「あの、それは……」
途端に居心地の悪さに襲われる。そんなに見透かされているものなのだろうか。ワタルたちの関係ではなく、僕らの関係も。隣をもう一度見ると、クウも目を逸らすようにして頬を赤らめている。……それを見て更に居心地が悪くなった。
「ん、私の話はこれでおしまい。二人とも、その……いい青春をね?」
「も、……もちろんですよ!」
無駄に元気よく言うクウに、
「はあ……まあ」
と、僕は曖昧に答えた。
じゃあ今度こそ、と僕らは席を立つ。そして別れの挨拶をして、教室を出ようとしたとき。
「……ねえ、最後に一つだけいいかしら」
「はい?」
僕らは立ち止まり、振り返る。
「もし、大事な人が悲しい選択をしようとしていたら……そのとき二人は、止める? それとも付き合う?」
冗談で聞いているのではないようだった。
その目には、真剣な光が宿っていた。
だから、僕はよく考え、それでも自分の思うままの答えを言う。
「その選択に、自分が本当に共感できるかどうか……じゃないですかね」
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