――それでも、手を伸ばそう。
きっとそこには。
いつか紡いだ約束があるんだから。
*
ジリジリと音が鳴り、慣れた手つきでボタンを押す。
煩く覚醒を催促していた目覚まし時計は、すぐに静かになった。
「んー……はあ。今日も相変わらずいい天気だな」
俺はさっとカーテンを引き、窓から外を見やった。雲も殆ど浮かんでいない快晴。そんな青い空に、幾つもの影が動いている。
「……鳥も相変わらず、元気そうに飛んでるや」
鴇村。トキと名が付くからかどうかは知らないが、この村にはトキを始め多くの鳥たちが飛び回っている。それは随分と昔からのようで、鴇村には鳥に関する言い伝えも幾つかあるほどだった。
俺の家族は特にその言い伝えを信じているらしく、物心ついた頃から聞かされてきたものだ。おかげでオレは、むしろ鳥が鬱陶しいと思うようになってしまっていたりするけれど。
「……さ、朝飯食べに行こうかな」
俺はそう独りごち、布団の乱れを整えてから自室を出た。
廊下を突き当りまで進んで、右側にある扉をゆっくりと開く。その先のリビングでは、既に父さんが席に着いて朝食に箸をつけていた。
「おはよう、父さん」
「ああ、おはよう」
挨拶を返す父さんの目はしかし、テレビのニュース番組に向けられたままだ。六月三日、朝のニュースをお伝えしますというアナウンサーの落ち着いた声が聞こえてくる。
テーブルの上には、少し焦げ気味のパンが一切れと、雑に盛り付けられたサラダが置かれている。
父さんの手料理だ。
「……いただきます」
「ああ」
父さん――名は赤井元気(あかいげんき)という――は毎日朝食と弁当を作ってくれている。その代わりに夕食と、
休みの日は昼食も俺が作ることになっている。それはもう長いこと赤井家のルールとなっていた。
母さんがいなくなってから。
「……相変わらず、料理の腕は上がらないね」
俺はパンの端の小さな焦げをぼんやりと見つめながら言う。それは殆ど無意識で、悪口を言おうと思ったわけではないのだが。
「お前こそ、親にいつまでもそんな口のきき方をするんじゃない」
「なら、そろそろ美味い朝食を食べたいもんだよ。……もう、七年だし」
七年か。あれからもう、七年が経つ。
「お前が作れればそれでいいじゃないか」
「やだよ、ただでさえ家事はほとんど俺がしてるんだからさ」
「……それは、そうだな」
父さんの呟きには、怒りと、申し訳なさと、感謝とが奇妙に混じりあった感情が込められているような感じがした。
「……ごちそうさま」
俺はさっさと朝食を平らげ、自分の分の洗い物をして、リビングから逃げるようにして出て行った。
「……はあ」
扉を閉めるなり、俺は溜息を吐く。
「歩み寄れねえよなあ……」
俺と親父がギクシャクするのは、ほぼ毎日のことだ。
間を取り持つ存在は……母さんは、十年前に亡くなっている。
か細い体。それでも頼もしかった、笑顔の眩しい母さん。
そんな母さんが病気で亡くなってからは、いつだってこんな感じだった。
頑固な親父だ。優しさという言葉から程遠い男なわけで、かけられる言葉に愛情を感じるわけもない。
この関係が改善される日は、永遠に来ないんじゃないかと思ったりもしている。
そう、とにかく頑固親父なのだ。
「……さて、と。学校に行かなきゃ。準備しよう」
気持ちを切り替えるために、俺はそう呟いて部屋に戻る。
漫画と教科書がごちゃ混ぜになった本棚から、必要なものを抜き出して、鞄に詰めていった。
「これで全部、と。よし……行くか」
一人で頷いて、俺は部屋を出ようとする。しかし、扉を開ける直前で大切なことに気付いて回れ右した。
古びた勉強机。その引き出しの中にしまわれた一冊の赤いノート。
俺はそれを取り出すと、乱雑に入れた他のものよりも幾分慎重に、鞄の中に入れた。
「これを忘れたらあいつが落ち込むもんな。危ない、危ない」
このノートは、俺とあいつを結ぶ大事なものだ。
気恥ずかしい言い方だけれど。
今度こそ部屋を出て、行ってきますの掛け声とともに、俺は外へと足を踏み出した。
*
貫禄すら感じさせる、木造の平屋。
中央を流れる、透き通った川。
作物の育つ畑。
長閑な光景。
これが――鴇村。
俺たちの住む、小さな村だ。
山奥にある、地図にすら名前の載らない、ほんのささやかな村。
その場所で今日も、俺の一日が始まっていく。
学校は俺の家のすぐ北にあった。村自体が狭いので、歩いて三分もかからない。裏手に回り、ちょっと歩いて左に曲がればそこに学校が見える。掛けられた時計の目立つ、村で二番目に大きな木造建築だ。
校門前までやってきた時、おーい、という声が聞こえてきた。耳慣れた声だ。すぐにあいつだなとわかる。
民家の影からひょいと現れたのは、やはり俺の頭に浮かんだ人物だった。
「ワタルくん!」
「おう、ツバサ。おはよう」
「うん、おはようワタルくんっ」
肩の辺りで揃えられた、白みがかった髪。そして眩しく無邪気な笑顔。この女の子の名は、真白(ましろ)つばさ。見た目に違わず、明るく純真で、ちょっと天然な女の子だ。
「今日は転ばなかったな」
「もう、私そんなドジじゃないよ! ……ま、行こっか?」
「ああ、そだな」
門の前で立ち話をしていても仕方ない。俺たちは二人並んで門を通り過ぎた。
それなりに広い校庭に、一つしか教室のない校舎。ここが俺たちの通っている、村で唯一の学校だ。
ここ一つしかないから、俺たちはただ学校とだけ呼んでいる。
鴇村の人口は四十人程度。子どもの数となれば、十人にも満たない。年齢もバラバラの子どもたちで編成された、一クラスの学校。けれど、それだからこそ友情も厚かったりする。
朝が待ち遠しくなる理由になったりする。
「もう時間ギリギリだ。急ごう、ワタルくん」
いきなり走り出すツバサに、俺は苦笑しながら注意する。
「慌てなくても。もうそこなんだからさ」
「はーい……」
喜怒哀楽の分かりやすい子だ。
玄関口をくぐり、俺たちは靴のまま校舎の中に入る。下足ロッカーなどはあるはずもない。
滑りの悪くなったスライド扉を開くと、教室には既に他の生徒が全員揃っていた。
「おはよう、ヒカル、クウちゃん」
俺はまず、一番近くにいた二人に挨拶した。二人はこちらの声に気付くと、
「あ、ワタル。それにツバサちゃんも。おはよう」
「おはよーっ、お二人さん」
と、返してくれた。前者がヒカル、後者がクウちゃんだ。
青野光(あおのひかる)はどちらかと言えば大人しい性格の少年だが、聞き上手なところもあり、話のネタも多いので、話しやすい。対して緑川(みどりかわ)くうは男勝りな性格の女の子で、外で遊ぶときも決して俺たちに遅れをとることはない。
「相変わらず、仲がよろしいことでねえ」
「もう、クウちゃん。朝から変なこといわないでよ」
クウちゃんがからかうのに、ツバサは顔をほんのり赤らめて抗議する。ただの冗談だとスルーすればいいものを、こちらまで恥ずかしくなってくる。
「ごめん、ツバサちゃん。こいつの口の軽さも、相変わらずだよね」
と、ヒカルがフォローを入れてくれたので、ツバサもうんうんと頷く。
「何ですってー?」
「ははは……」
クウの膨れっ面が面白かったので、俺は思わず笑ってしまう。
こうやって、他愛のない話で盛り上がるのはもう毎度のこと。この話のために、笑顔のために、俺たちは毎日学校へやって来ていると言ってもいい。勿論勉強も楽しいけれど。この村で大事なのは、知識よりも結束だと思う。
ツバサに、ヒカルに、クウ。この三人は、特に仲のいいメンバーだ。
それに、あと一人――
「……ん、そういやタロウは?」
「タロウくんは……窓際で外眺めてるね。元気ないのかな」
ツバサの視線の先を見やると、確かにタロウは憂えた瞳で窓の外を見つめていた。思わず首を傾げると、
「弟くんの、病気がねえ」
「ああ、そうか……」
クウの説明に、なるほどなと腑に落ちる。
端の席で静かに座る彼、黄地太郎(おうちたろう)も仲の良いメンバーの一人なのだが、クウの言うように弟が病を患っているらしい。
弟の名前は次郎(じろう)と言い、まだ学校に通う年齢ではないのだが、たまにメンバーに混じり遊ぶこともある。
とても活発な子で、つい最近も俺たちと一緒にサッカーをして遊んでいたのだけれど……。
「クウが言うなら間違いないんだろうな」
「ま、お医者さんだからね」
苦々しく、クウは頷く。
「すぐに良くなれば、いいけどねえ」
「そうだねえ……」
ヒカルとツバサも、そう言って互いに頷きあった。
俺たちの親は、どうやら村で結構重要な役割を持っているらしく、例えばクウの親はお医者さんだったりする。
タロウの親は村の外との交易という役割を振られているし、ツバサの親は村の治安管理を任されている。
俺の親は冠婚葬祭、主にお葬式の進行を任されているらしいし、ヒカルの親は村一番の大地主で、年に一度の祭を取り仕切っている。
というように、俺たちの家それぞれが、村にとって結構大事な存在のようだ。
そういう境遇が、俺たちを引き付けた要因でもあるんじゃないかと思っている。
チャイムが鳴り、それとほぼ同時に教室の扉が開く。そして現れたのは我らが先生、宇治金枝(うじかなえ)さんだ。
「はい、皆おはよう。席に着いてね」
「あ、カナエちゃんだ。おはよー」
「こら、クウちゃん。学校では学校らしくしなさい。そんで席に着きなさい」
「はいはいー」
コントのような掛け合いをしつつ、カナエ先生は教壇に、クウは自分の席に向かう。
「クウ、カナエさんは先生なんだからね……」
「はいはいー」
「……はあ」
やれやれと首を振るヒカルと、お気楽な返事をするクウ。一見対照的だが、この二人は本当に仲が良い。時折こちらが照れ臭くなるほどだ。
カナエ先生は出席簿を開くと、俺たちの名前を読み上げ始めた。元気の良い声が返る。今日も一人とて、欠けている者はいない。
満足気に先生は微笑み、一度教室を抜ける。
そして教材を手に再び戻ってくると、チャイムの音とともに一時間目の授業が始まった。
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