黒スーツの男の夢を見た。
あの男の顔を見ていないせいか、彼はずっと後ろを向いたままだった。
僕はこっちを見てと言う。すると彼は、ゆっくりと振り返りながら、その姿を変えてしまうのだ。
獰猛な、赤く光る双眸を持つカラスに。
「……夜の森、だもんな」
夜の森が危険なのは、凶暴な鳥が夜になると活発に活動するからだ、という理由を聞いたことがあった。
きっと今日の夢は、その話と黒いスーツとがだぶったからなのだろう。
「何者だったんだろうな。……村の外の人間には違いなさそうだけど……」
いずれ、あの男の正体が分かるときが来るのだろうか。
不思議なことに、あの男にもう一度会いたいと思っている自分がいるのに気付く。
「……何でだろうな」
分からないままにしておきたくない。
きっと、そういうことなのだろう。
僕はそう思うことにして、ようやく布団から起き上がった。
居間では既に、家族が全員集合していた。僕は奇妙な夢に囚われて、中々起きれずにいたらしい。とは言っても、ほんの二、三分ほどしかいつもと違わないのだが、こうして待たれるのは申し訳なくなる。
僕が着席すると、いただきますの合唱で皆一斉に朝食へ箸を伸ばしはじめた。
ニュースでは、東京で不発弾が見つかったという事件についてキャスターと識者が話し合っている。そんなニュースを聞くともなく聞きながら、
「ヒカル。お前ももうすぐ成人する。五年なんてあっという間だ。だから、今年からは鴇祭をよく見ておくんだぞ」
と、お祖父様が言った。見ておく、というのはつまり、祭の光景をただ見るのではなく、その中で青野家がどんなことをしているか、また周りの人間がどんなことをしているかを観察し、覚えていけという意味だ。
五年。僕にとっては長く感じるその年月も、確かに大人たちにとっては短いのだろう。
「分かりました」
あと四回の祭の後、お祖父様の役が父さんに移り、そして父さんの役が僕に移る。代々そうして、鴇祭は受け継がれてきたのだ。僕もその架け橋とならなければならない。責任は重いが、そのことは、嫌な重圧ではなかった。
「それと、ヒカル」
「はい?」
お祖父様は、わざと素っ気無い様子で僕に話す。
「地主の子同士で仲良くするのは構わんのだが、互いの家の役割というものがある。……あまり、行き過ぎてはならんよ。意味は分かっておるな」
「……それは……」
それは、あまりにも突然の忠告だった。
「お前がもうすぐ成人するのだと思うと、言っておかずにはいられなくてな。お前は青野家の一人息子だ。この村のことを、常によく考えるようになりなさい」
「……はい」
呆然としながらも、口はそんな風に動く。口だけは、お祖父様の言葉を受け入れる。
だけど、心は受け入れられない。それが表情に出ていたらしい。
「……お前に、村を出るくらいの勇気があるなら別だがな」
「村を、出る……?」
「ああ。その昔、鴇村から出た男が一人いた。カズヒトという男だ」
「……カズヒト」
その名前には、聞き覚えがなかった。
「あまり知らなくても良い名前だ。裏切り者とすら呼ばれている人間だからな」
「それは、村を出たから?」
「……色々なことがあるのだよ」
お祖父様は曖昧な言葉を返すと、再び僕を真剣な眼差しで見つめる。
「とにかく、お前は青野家の子だ。祭もしかり、交遊もしかり。……責任を持って、やっていきなさい」
それは頷くことしかできない、力ある命令だ。
勿論僕が首を横に振ることなど、出来はしなかった。
*
朝から気持ちが沈んでしまい、正直に言えば学校を休んでしまいたかったが、クウが待っているからと思いなおし、僕は重い足を動かして家を出た。殆ど無意識のまま、クウの家へ向かって歩き続ける。傍から見れば、夢遊病者のような足取りに見えたかもしれない。
扉をたたくと、すぐにクウが出てきた。僕は暗い顔を見せたくなくて、ドアの音とともに表情を引き締める。しかし、どうしたことか、僕よりもクウの方がずっと暗い顔をして、僕の前に現れたのだった。
「おはよう、ヒカル」
「う、うん。おはよう。どうしたんだ、クウ?」
顔を覗き込むようにして、僕が訊ねると、
「……ジロウくんがね。……相当、危険な状態みたい」
「え? で、でも、この前まで一緒に遊んでたんだよ? いくら病気になったからって、そんな……」
「なるんだよ。発作っていうか、突然症状が現れて……。どうもさ、あっちの両親も前々から病気の兆候があることは分かってたらしいんだけど、大丈夫だろうって高を括っていたみたい。でも、それが思いもよらない重病だったってことでね……」
「助かる、の?」
「……何とも言えない。うちのお父さんが、タロウくんの家の車で村の外に出て、どこか大きい病院に連れて行くみたいだけど……そこから先は、分からないわ」
普段はポジティブシンキングなクウが、これほどまでに事態を否定的に見ているということは、ジロウくんの容態は本当に深刻なものなのだろう。助かるかどうかすら分からないなんて。あの無邪気な幼い少年を、もう二度と見ることが出来なくなってしまうかもしれないなんて。
それが現実のことだとは思えなかった。
「……診れるわけないんだよ、やっぱり……」
「うん?」
「いや、なんでもない」
拾ってほしくない独り言のようだったので、僕はそれ以上追及するのはやめた。
あまり重い病気を診るような技術を、クウの両親は持ち合わせていないのかもしれない。
閉鎖された村だ。それも無理なきことだろう。
それを娘が悔いても仕方がない。
それから僕らは、言葉のないまま歩き続け、学校へと辿り着いた。
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