――遠くで私を呼ぶ声がする。
目が覚めたとき、私は私ではなかった。
頬に触れればひんやりとした感触はあるし、皮膚を抓れば痛い。至る所に負っていた傷に触れれば、じんとした痛みと、何故だか少し、寂しさも感じる。
でも、私は私を覚えていなかった。
私は自身のことを、何一つ思い出せなかったのだ。
名前を呼ぶ声に、目が開いたとき、視界に広がったのは病室の天井だった。私は怪我のため、治療を受けているようだった。そういう状況は理解できても、自分がなぜそうなってしまったのか、そもそも自分が何者なのか、その記憶が一切、消え去ってしまっていたのだった。
その異常さに呆けてしまった私の隣には、一人の少年がいた。私と同じくらいの、赤毛の少年だった。そして、彼と目を合わせた瞬間、私は私の意識と無関係に、涙が溢れてくるのを感じた。
――ごめんなさい。
私はなにに謝っているのかも分からないまま、そう彼に告げていた。
彼は言葉もなく、ただ静かに、だけど力強く、私を抱きしめた。
彼は――ワタルくんは、毎日私の病室へやって来て、話を聞かせてくれた。それは、生まれたときからあの日に至るまで、ずっと共に過ごしてきた、二人と、友人たちとの日々のお話だった。私はそのお話に、とても心が温まる思いを感じながらも、どうしても、それを自分の過去だと受け入れることができなかった。彼が話す日々は、心地の良い物語めいて聞こえていたのだった。
それでも、彼が聞かせてくれるものは全て、私が存在した確かな証であるはずだった。だから、私はその物語を手放さないように、私が生きた事実を手放さないように、真剣になって、話を聞き続けた。覚え続けた。
けれど――たった一つだけ、どうしようもなく埋めがたい空白があった。取り戻そうとする度、耐え難い頭痛が襲い、その記憶が戻ることを拒絶してくるのだった。ワタルくんがそれから何度も口にしたように、そのときの出来事こそが、私が全てを失う原因だったのであり、知ろうと努力するほどに本能がそれを拒否することも、無理からぬことなのだった。
記憶が戻らぬまま、私は退院し、ワタルくんと一緒に生活することとなった。まだ十五歳の子供なのに、どうして自分だけの家も、お金もあるのかと訊ねたことがあったが、当然ながらワタルくんは答えをはぐらかした。思えばそのときにはもう、彼の中で一つの思いが、計画が芽生えていたのかもしれない。
そしてまた、ワタルくんの思いとは裏腹に、そのときからもう、私の精神は虫食いのように穴を開け始めていたのだった。
ワタルくんは私をとても大切にしてくれた。家を出ることすら困難な私に、自由な時間の殆どを費やしてくれていた。なのに私は、段々とその事実を認識できなくなっていった。彼が側にいてくれる温かさが、日毎に感じられなくなってしまったのだ。
そして、ふつりと消える。
私の精神がどうしようもなく壊れてしまったのは、四年ほどが経ったときのことだ。でも、そこには決して劇的な何かがあったわけではなくただただ蓄積されたものが、限界を超えてしまったというだけなのだと思う。
私は大切な人を目の前にしたまま、その意識を手放した。縋りつこうとしていたものに、最後まで縋りつくことができなかったのだった。
そのときから長い長い間、私の記憶は欠落している。それは今でも完全に戻ることはない。けれど、かさぶたが張り、やがては傷口が塞がっていくように、僅かずつ蘇りはしているのだ。
抜け落ちた時間の中にも、とても大切なことが沢山ある。
それは、悲しい記憶であったり、楽しい記憶であったり、恥ずかしい記憶であったりと、思い出す度に色々な気持ちにさせられるけれど。
そこから生まれた全てを、私は大切にしていきたいのだ。
私達はもう、家族になっていたのだから。
*
車は、緩やかなカーブを走り続けている。運転席にはワタルくんがいて、助手席に私が座っている。その背後には、大人しく腰を沈めている子供たちがいた。
今日は、初めての家族旅行だ。私が退院して、真っ先にやりたいと子供たちが口を揃えたのが旅行だった。まだまだ健康な体になったとは言えないため、日帰り旅行ということに落ち着いたが、それでも子供たちは喜んでくれた。その笑顔に、私とワタルくんも嬉しくなった。
「だからさ、ヒカルのやつに言ってやったんだよ。男は度胸だってさ」
「ワタルってば、人の恋愛に口挟みすぎちゃうんだよ。ヒカルくんのこと好きなんだよね」
「こら、ツバサ。誤解を招くようなことは言うな」
「ワタルも早く、いい人見つけないとね?」
「そういうお前もな」
子供たちは、未だに私たちの名前で呼び合っている。ヒカルくんやクウちゃんと仲良くしているから、その方がしっくりくるということらしい。確かに、今更本名で呼んでもらうよりかは、今まで通り呼び合えた方が気が楽なのかもしれない。私たちとしては、少し気恥ずかしくもなるのだけど。
「さあ、もうすぐ着くぞ」
ワタルくんが、ハンドルをゆっくり戻しながら言う。その言葉に、右手側の窓の外を眺めると、そこには陽を受けてきらきらと輝く、広い、青い海が広がっていた。
海が見たい。
それが、子供たちの望みだった。
島の中から見ていた海ではなく、この場所から見る海の景色。それを家族で見てみたいのだと。そうすることで、私たちが今、自由に生きていることを感じたいのだと。
広い世界から、かつて私たちが過ごした鳥籠に思いを馳せる。
不思議な気持ちだけれど、それは決して不快なものではなかった。
道路脇に車を停め、私たちは海岸沿いを四人、ゆっくりと歩いていく。そして、海を一望できる場所までくると、シートを敷いてそこに腰を下ろした。
手製の弁当は、娘と一緒に作ったものだ。ワタルくんと息子が起きだす前に、二人でこっそり、けれども楽しみながら作っていた。割合大きめの弁当箱が置かれると、男二人は揃って感心の声を上げるのだった。
美味しい、と何度も口にする二人に、私たちは照れ臭くなりながらも、幸せに満たされた気持ちになる。大きな幸せは望まない。ただ、この場所にささやかな幸せが、長く続いてほしいと、私はそう願わずにいられないのだ。
決して偽りの形でなく、こうして本当の気持ちでもって、家族が過ごせる日常。それは途方も無い歳月の果てに、ようやく得ることのできたものだったけれど、これ以外の道はなかったのだと、私は思っている。だから、例え後ろを振り返っても、戻りたいとは考えない。大丈夫、これからも私たちは、真っ直ぐに飛んでいく。
あのときは、謝ってばかりいたみたいだけれど。
今は、感謝の気持ちでいっぱいだ。
ありがとう、ヒカルくんに、クウちゃん。それに、本当のヒカルくんも。
ありがとう、私たちを救ってくれた人たち。私たちが巻き込んでしまった人たち。
ありがとう、子供たち。
そして、ずっとずっと、ありがとう。私の大切な――
「どうした、ぼーっとして」
近くで声が聞こえ、私は少しだけどきりとする。すると彼は、面白そうに微笑んで、私の頭を撫でた。
「何でもないよ。……懐かしいな」
優しく撫でられる感触。とても久々だったけれど、私はその感触を覚えている。その心地よさも、覚えている。
ねえ、ワタルくん。こうしてやっと取り戻せた幸せを、目一杯感じていようね。
やっと果たせた約束の先を、四人で見ていようね。
大丈夫、私たちはどこまででも、飛んでゆけるから。
だから、見えない未来に怯えることなく、幸せを噛み締めていよう。
あなたに訪れる、さいごのそのときまで。
――私の大切な、ワタルくん。
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