僕はこの鳥に恵まれた村で、バードウォッチングを度々している。母さんが買ってくれたカメラをきっかけにして写真を撮るのが好きになっていき、初めは特に限定されていなかった被写体も、今では殆どが鳥になっていた。
美しい自然の中を飛ぶ鳥、或いは羽を休めている鳥。様々な鳥の様々な姿。この村でなら、僕は飽きることなくシャッターを切り続けられるだろう。
家の西にある、森への入り口。だんだんと細くなっていくその道を、僕はゆっくりと進んでいく。木々の枝葉に遮られて、次第に陽の光が失われていく。道は舗装もされていないため、雑草が生い茂っている。初めて立ち入る者は、五分も進めば戻れないかもしれないという恐怖に負けてしまいかねない所だ。
僕はもう、この森に何度も立ち入っているので、余裕綽々といった感じだ。虫が飛ぶのが鬱陶しいが、それもあまり気にしないようにすれば問題ない。
他の誰かと森に入ったことはまだなかった。バードウォッチングは、基本的には一人だけでしている。村の中で誰かと一緒に鳥を追いかけることもたまにはあるが、やはり観察や撮影は、一人で、心を落ち着かせて行いたいのだ。
やがて、一本の大木がその姿を現す。獣道の先の、僅かにできた広場のような場所に屹立する巨大な木。その木が二分するかのように、道は二つに分かれている。というより、分かれたすぐ先で、道はどちらも完全に消失しているのだが。
この道の左側は、立ち入ってはならない場所だとお祖父様に言われたことがある。この先には墓地があり、その管理は所有者である赤井家が行っているのだと。家族のお墓にお参りできるのは、その家の最も年長の者だけだと決まっているらしく、他の者はお参りしたくてもできないらしい。
理由は分からないが、まあとにかく、墓地の所有者が赤井家であり、赤井家の長がそういう規則を定めているということだ。
僕は右の道を進んでいく。すぐに道は途絶えるが、気にすることなく真っ直ぐ進む。すると、村を二分している川の上流に辿り着く。そこは川も浅く、視界も他の場所より幾分開けていて、雑草よりも花が多く咲いていて。恐らく森の中で最も美しい場所だった。
早速川べりにルリビタキを発見する。鳥についての知識は、長い間バードウォッチングを続けてきたこともあり、ワタルには及ばなくてもそれに近いレベルまでは達しているんじゃないかと思う。
キョロリキョロリと鳴き声を発するルリビタキに後ろから静かに近づくと、ここぞというタイミング、角度でシャッターを切る。音に驚いてルリビタキは飛び去ってしまったが、画面を見ると、中々いい写真が撮れていた。一枚目の出来としては満足だ。
――と。
「お、いい写真撮れたねっ」
突然背後からそんな声がして、僕はひっ、と素っ頓狂な声を上げてしまう。
声の正体はすぐに分かったので、僕は振り返って苛立ち混じりに、
「クウ。帰ったんじゃないのか」
と彼女に問いかけた。凄みをかけたつもりなのだが、クウはケロリとした表情で、
「いやー、鳥の撮影に行くんだろうなと思ったから、尾けてきちゃいやした」
「……はあ」
全く、この子の行動力には呆れてしまう。
「森の中に、こんな綺麗な場所があったんだね。ロマンチックだなあ。こんな場所で今告白されたら、即オッケー出しちゃいそう」
「そんな雰囲気に流されちゃ駄目だろう」
「失礼な、雰囲気だけじゃありませんよ」
「……そ、そう」
何となく、クウとそういう話をするのが気恥ずかしくて、上手く言葉が返せなくなる。曖昧な返事をして、再びカメラを構える僕に、
「私も撮ってほしいな」
と、レンズを覗き込みながらいうものだから、腹立たしいやら照れくさいやら、良く分からない気持ちになってしまう。
クウといるときは、いつもこうだ。
クウを後ろに従えて、会話もそこそこに、次の被写体を探す。ふと視線を上にやると、その先の枝にベニマシコが止まっているのが見えた。
構図は悪いが、とりあえず撮っておこう。そう思い、レンズを覗き込んだそのとき――
「きゃあ!」
後ろからクウの悲鳴が聞こえた。慌てて振り返ると、クウの目の前に野生のイノシシが飛び出してきていた。子どものイノシシなのだろうが、それでも強靭そうな体つきをしている。暴れられたらかなり危険だ。
――助けなきゃ。
そう思うのだが、ひ弱な体は動いてくれない。いや、ひ弱なのは心なのだろうか。
ようやく足を一歩踏み出せたときには、イノシシはぷいとそっぽを向いて、森の奥へと去っていってしまった。
「……はあ、よかった」
「もう、ヒカルってば情けない」
胸を撫で下ろす動作をしてから、クウはこちらを睨むようにして言う。ご立腹のようだ。
自分でも情けなかったと思う。彼女を守りたいと強く思ったのは事実なのに、体は全く動こうとしなかった。
「……ごめん」
謝るほかない。自分の無力さが、ただただ腹立たしくなった。いや、無力なわけではない。きっと怖いのだ。自分の身が可愛いのだ。
「次なんかあったら、ちゃんと守ってよ?」
頬を膨らませてから、クウはそう言って笑う。この約束と引き換えに、許してあげるといった感じで。
ならば、僕はその約束を必ず守ろうと思った。
「うん。もう今みたいな恥ずかしい姿は見せないよ。その……次は絶対、クウのことを守る」
「お……おう。頼むよ」
冗談交じりに言ったのを真剣に返されたためか、クウは些か狼狽した様子でそう返した。そのおどけた表情を、僕はほんの一瞬だけ愛おしいと感じた。
結局は、そういうことなのだろう。
僕はただ、感情を素直に表現できないだけの人間なのに違いない。
「ささ、早く次を撮らないと陽が暮れちゃうよ。どんどん行こ!」
「そんなことは分かってるよ。よし、行こう」
そして僕らは、陽が暮れるまでの一時間と少しを、二人で過ごしたのだった。
*
夕闇が辺りを包み込むと、森は元々怪しげなその様相をより一層恐ろしいものにする。
すっぽりとその闇に包まれるまでに、僕らは森を抜けようと早足で戻っていた。
夜が近づくにつれ、鳥たちの鳴き声が少しずつ変わってくる。色々な鳥たちの声がしていた森は、今ではカラスの声が半分ほどを占めている。
「森に近づくなっていう理由も分かるなあ」
「そうだね。明るい内しか立ち入らない方がいい」
僕らは大木の所まで戻ってくる。道がはっきりしている方が帰り道だ。
長老のような木の横を通り過ぎ、僕らは村へ帰ろうとする。
と、そのとき。
クウがあることに気付いた。
「あー! ね、ね、これ見てよ」
「うん?」
クウは木の幹を指差している。ちょうど胸の辺りだ。何か珍しい虫でもいるのだろうかと思ったのだが、そうではないらしい。
「ほら、ここ」
「……あ」
クウが指差した場所には、最近つけられたらしい図が刻まれていて。
その図には、見知った名前が彫られていた。
「ワタルと、ツバサ……」
不器用な線で刻まれていたのは、カタカナでワタルとツバサ、その二つの名前。
その間に、鳥を模しているのであろうマーク。
「これ、相合鳥……だよね?」
「相合鳥って……?」
僕が問うと、クウは心底驚いたような、呆れたような調子で、
「えー! ヒカル、相合鳥知らないの!?」
「相合傘なら知ってるけど、鳥って……この村じゃそんな風になってるのか」
「そうだよー。こうやって、鳥のマークの間に好きな人同士名前を書くとね。その人たちは必ず結ばれるんだって」
「相合鳥、ねえ……。駄目だ、そういうのはちょっと信じる性格じゃないや」
「えー、夢も希望もないなあ」
「その言い方はどうかと思うよ……」
僕は基本的に、非科学的なことはあまり信じない人間だ。こういうお呪いのようなことも、どちらかと言えば胡散臭いと思っている。
けれど、こういうお呪いをする意味については、自分なりに分かっているつもりだ。
これは信じるというより、確認する儀式。
結ばれたい。互いにそう思っているのだということを、確認するための儀式なのだ。
だから、ワタルとツバサちゃんは。
結ばれたいと祈っている。
「……ねー、なんか羨ましいからさ。私たちも彫らない?」
「……は?」
突然のクウの言葉に、僕は図らずも間抜けに聞き返してしまう。
「だから! この裏にでも、刻んじゃおうよ」
「……え、えっと、クウ?」
「はいはい?」
「いや……僕だよ?」
「うん」
あんたしかいないでしょ、というような目で、クウは僕を見つめてくる。それがあまりにも当たり前のようで、でもそれは、決して当たり前ではなくて。
「……うん」
耳が熱い。
きっと僕の顔は、真っ赤になっていることだろう。それを見せないように顔を伏せながら、僕は小さく頷いた。
大木の裏、ちょうどワタル達の相合鳥の裏手に、僕らも僕らの相合鳥を刻み込む。ワタルたちと同じようにカタカナで、ヒカル、クウ、と。
それは、確かに思いを確認する儀式だった。
互いの思いを伝え合う、神聖な儀式だった。
「……よし」
「出来たね。思ったより、あっさり」
「まあ、ね。ちょっと雑だけどその辺はご愛嬌、だね」
「はは……」
ここに刻まれたのは、二人の純粋な気持ち。
言葉にはしなくとも、形として表された……純粋な。
――そこに。
「わっ」
クウの眼前にバサバサと音を立てて降り立った、二羽の鳥。
それはトキだった。
オスとメス、つがいのトキだ。
「トキ……」
「わ、わー! つがいのトキだよ、ヒカル! すごい、すごい!」
僕の手を握り、体全体で喜びを表現するクウ。確かにトキは珍しいが、こんなにも喜ぶのには他にも理由があるような気がする。
そういえば、つがいのトキには言い伝えがあったような――。
「あ……そうか」
理解するのに時間差があったせいだろう、クウはええ、と大げさに仰け反って、
「もー、ヒカルったら忘れてたの?」
「いや……ええと」
「つがいのトキを目にした二人は、必ず結ばれる。有名じゃん。……すごい、偶然だね」
「……うん。まさか、こうやって名前、書いた後に……ね」
お呪いは信じないはずの僕でも、つい信じてしまいそうなほどに、すごいタイミングで。
トキは僕らの前に降り立ったのだ。
一瞬だけ、カメラを構えようとしたものの、何故だか僕はそんなことをするのは無粋だと思ってしまい、動かしかけた手を戻した。切り取る必要はない。この胸の中に、二人の胸の中にこの光景があるのなら。
つがいのトキは、すぐに飛び去った。写真にできなかった後悔はない。ただ、なんとも言えぬ感情でこの心は満たされていた。
それを、二人共有していた。
「……ねえ、ヒカル。私ね……」
「……うん」
クウは、しばらく躊躇ってから、首を振って、言う。
「……帰ろっか」
「……」
自分からは、言わないよ、と。
そう、暗に言われているような気になった。
分かっている。
だから、すぐに言うさ。
この弱気な心が、君を守るに足る勇気を持てれば。
「帰ろう」
クウの手をとり、僕は歩き出す。
夕空の下、鴇村までの道をゆっくりと。
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