そこは、木々に囲まれた静かな土地だった。
他の誰にも干渉されず、ただ穏やかな毎日を過ごすのに、その場所は最適だった。
森の中の別荘地。そこではただ一人、年老いた男が安らかな余生を過ごしているのだった。
最寄りの町から車で一時間以上。人里離れた場所だからこそ、彼は自身がかつて身にまとっていた全てのものを捨て去って、一人の老人でいられるのだ。過去が血に塗れ、罪に塗れたおぞましいものであることを、彼は認めていたのである。
齢は六十に届こうかというところだが、彼が経験してきた艱難辛苦ゆえか、外見は七十に近いそれに思えてしまう。既に体は言うことを聞かなくなり始めており、一人では難しいことも目に見えて増えてきていた。そのこともまた、彼は素直に受け入れているのだが。
とある日の午後。別荘に、来客を知らせるチャイムが鳴る。それは不意の来訪ではなく、予てより彼が待ち望んでいた客人であった。
「来たよ、お父さん」
佐渡朱鷺子。彼の娘だった。
*
佐渡コンツェルンは、世間で言うところの大企業であり、その名前から分かるように、彼、佐渡一比十が代表取締役を務めていたビジネス会社である。佐渡コンツェルンには傘下の子会社もいくつかあり、テレビでもよくその名が出てくるような有名企業なのだった。
彼自身は入り婿であり、有り体に言えば懐に潜り込んだという感じではあったものの、裏で囁かれる蔑みの言葉もものともせず、一比十は社のために活躍し続けた。その功績は極めて大きく、十年が経つ頃にはもう、陰口を叩くものは皆無と言っていいほどになった。彼の経営力は本物だったのである。
彼の親族には一人、兄の息子がいた。赤井渡という少年だった。彼は事故によって身寄りを亡くしたことで、一比十の庇護を受けているのだと、周囲にはそう説明していた。ある意味では、それは正しく、また別の意味では、それは明らかな間違いだった。
一比十は、その甥を自社で働かせるように命じた。渡は、一比十の指示通り、いや指示以上によく動き、優秀な人材だと一目置かれるまでになった。一比十はそれに満足し、渡をよく褒めた。一比十が代表取締役に就任した際には、二段階も昇進させるという異例の人事も行ったほどだった。
一比十は、渡を信じていた。そう、それは嘘ではない。
だから、あの日のことを、今でも忘れられない。
古びた写真を手に、冷たい瞳を震わせて、自分を見つめて来た彼との、一幕を。
「……ふうん。そうだったんだね」
朱鷺子は白磁のティーカップを片手に、相槌を打っている。彼女が自分で淹れた紅茶だ。彼女はもうこの家の勝手を知っている。
「長い、長い……恨み、だったのかな」
「……恨みじゃあ、ないさ。俺には、分かる」
ベッドの上で上半身を起こして、一比十も娘が淹れた紅茶を飲んでいた。こうして娘と、紅茶が飲める時間が、彼の今の生きがいに違いなかった。
「……こんな年寄りが言うものじゃあないかもしれないが。……愛っていうのは、やっぱり、簡単に消えてはくれないものなんだ」
「……愛、ねえ」
そう呟きながら、朱鷺子は紅茶を一口含むと、熱、と慌てた声を出した。
「私にも、それはよく分かるよ」
「……そうか」
娘の言葉の意味が、一比十にも痛いほどによく分かっている。
だから、結局は、朱鷺子も理解しているのだ。
「ただ、彼は……大切な人だけを、その目に映していたんだ。だから、冷たくて当たり前だったんだよ。その目は、俺を見ているわけではなかったんだから」
「純情、というべきなのかしら……ね。何というか、純情なほど、恋は苦しいのかもしれない」
「ふふ、言うじゃないか。……俺はどうだったんだろうな」
そう。自分は、どうだったのだろう。
彼と自分を比べたとき、そこに途方もない差があるようでならなかった。どこまでも大切な人を追い求めた者と、耐えられぬ現実から逃げ出した者。考えるまでもなく、自分は矮小で臆病な人間だったと、一比十はずっと、思い続けてきたのだ。
その答えを、ふと、求めたくなった。
「まあ……お父さんは、望みも持てなかったわけだからさ。どうしようもなかったでしょう。……私は、一途だったと思うよ? 壊れそうで、逃げてしまうほどに。お父さんは、金枝さんを……好きだったんだもの」
「……」
そうなのだろうか。
それは、許しを与えられたような安堵と同時に、どこか背徳的なものを感じずにはいられなかった。
きっと、自分は、許されてはならないと思っている。
「ねえ。……お父さんは、あの日……死ぬつもりだったの?」
「……何を言ってるんだ」
「分かるよ。金枝さんが思ったことと、お父さんが思ったことは……絶対に、一緒だったはずだよ」
鈍い痛みが、胸を襲った。
それは、自分でさえも気づかないようにしてきた、思いだった。
「そばにいることが叶わないのなら、せめて、大切な人と一緒に消えてしまいたいと……お父さんは、そう思っていたはずだよ」
「……お前は……」
あの島を出てから。
朱鷺子は一段と、大人びていた。
そして、いつのまにか。
自分は全てを見透かされていた。
「……あの村で、一体何人の人が。……大切な人と一緒に消えたいと、思ったんだろう」
「……どうだろう、な」
「……お父さんは、その思いが強すぎたんだね」
――金枝。
そうだ。
確かに俺は、お前と一緒に消えたかった。
お前が兄とともに消えるのなら。
そのそばに俺もいようと思ったんだ。
そして、それならばいっそ。
全てがともに消えてしまえばいいのだと。
狂おしい思いの中で、そんな答えを出してしまったんだ。
けれど、それは――罪として、残り続けた。
「確かに、全部……愛なんだね」
朱鷺子が、ポツリと呟いた。
一比十は、静かに一つ、頷いた。
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