「ねえ、クウ」
「なーに?」
学校からの帰り道、僕はクウを呼びとめ、何とはなしに聞いてみる。
「この村から昔、出て行った人がいるのって知ってた?」
「出て行った人? いや、知らないなあ。そんな人いるんだ」
表情を見る限り、それは嘘ではないようだ。やはり有名な話ではないらしい。
「カズヒトっていう名前の人らしいんだけど。何でも、裏切り者扱いされてるみたいで」
「裏切り者? ほえー、怖いな」
「村を捨てた人には、この村は厳しいんだね」
「……んー、厳しいのはそれだけじゃないとは思うけど」
「え?」
「いんや、何でもない」
ときたまクウは、真剣な眼差しになって全てを見通したような発言をするときがある。けれどもすぐにその言葉をなかったことにして、笑うのだ。
だからこそ、その言葉は真実味を帯びるともいえる。
「……この村にいる人たちに対しても、村は厳しいとは思うよ、僕も」
「……ん」
「クウは、村を出たいって思ったことはあったりするのかな?」
「……考えたことも、あるにはあるけどね」
「あ、あるんだ……?」
正直言えば、クウに限ってそんなことはないと思っていたので、かなり意外だった。
「やー、まあこのままじゃ医者継がなきゃいけないし。結婚するとしたらそのお相手も医者にならなきゃいけないわけでしょ? 流石にそれは厳しすぎるといいいますか。……ま、役割が振られてるところが特殊よね、この村は」
「うん。特にクウの家は、そう簡単に継げるものじゃないもんね」
「そう。そうなんだよ、ヒカル」
どこか嬉しそうに、それでいて悲しそうに、クウは言う。
「馬鹿だよなーって思う。そこに関しては、ね。でも緑川家だから、仕方がないと思うしかないわけ」
「仕方がない、か……」
「うん」
だからね、とクウは続ける。
「だから、村を出て行ったその人もきっと、厳しさに耐えかねて出て行ったんじゃないかって私は思うよ」
*
クウと別れ、彼女が元気良く玄関扉を開けて家に入っていくのを見届けて、さて自宅に帰ろうというときだった。遠くの方からエンジンの音が聞こえてきたのは。
やがて、一台のトラックの姿が視界に入る。それは、村で一台しかない、黄地家のトラックだった。
「病院から、帰ってきたのかな……」
僕はそう独りごち、家へ帰るのをやめ、トラックの方へ近づいていった。
トラックは黄地家の庭で止まる。庭が普段トラックを止めている場所だ。いつもは食糧や日用品を荷台に乗せているトラックも、今日はその背に何も乗せてはいなかった。
エンジン音が消え、ガチャリと両側のドアが開く。運転席のドアからはタロウたちの父親が、助手席からはクウの父親が出てきた。タロウとジロウの姿はなかった。
庭に車を止めて、二人とも出てきたということは、もう車は使わないのだろうか。そうすると、ジロウくんは村の外の病院に今もいるのかもしれない。そしてタロウも、つきっきりで見守っているのかもしれない。そう思うと、僕はズキリと胸が痛んだ。
タロウたちの父親もクウの父親も、沈痛そうな面持ちをしていた。それはきっと、ジロウくんの病状を映したもの。絶望的な状況を、映したもの。だから、僕は尚更に祈りたくなった。今日紡いだ千羽鶴の思いが奇跡を起こすようにと、祈りたくなった。
「……大変なことになった」
タロウたちの父親が言う。
「……すぐに、見つかるといいが……」
見つかる? 何のことだろう。病気について話しているのとはニュアンスの違う言葉に、僕はそれまでの感傷が吹き飛び、疑問でいっぱいになった。
「……私のせいだ。何も言わないままの方がいいと、思ったばかりに……」
「いいや……あなたは違う道を選ぼうとした。それは……素晴らしい決断だったと思う」
「……それを、伝えていれば……」
二人はそんな会話をしながら、黄地家へと入って行った。もう少し聞いてみたかったが、流石に家の玄関扉に張り付いて、聞き耳を立てること勇気はなかった。
しかし、今の会話は何なのだろう。病気のことを話しているのだと無理に解釈しようと思えばできる。病巣が転移したとか、それを隠していたとか、そんなところか。でも、何となくそんな話をしているようではなかった。病気とは違う、別な心配をしているような印象だったのだ。
「……何を心配しているんだろう」
そう呟く僕自身もそのときまた、得体の知れない不安感を抱かずにはいられなかった。
*
家に帰り、のんびりと時間を過ごす。写真の整理をするのも楽しいし、次はどんな鳥を、どんな背景で撮ろうかと考えるのも楽しい。一人でいるこうした時間も、決して暇なわけではなく、貴重だ。
ただ、いつもはそうして過ぎていく時間も、さっき目撃した一幕を思い出すと、途端に霧散してしまう。頭の中に疑問の渦が回り始め、落ち着かなくなってしまう。考えまいと写真のことを無理やりに想起し続けたが、どうしても完全に、あの場面を頭から追いやることはできなかった。
六時半を過ぎた頃、良い匂いが部屋まで漂ってくるのを合図にして、僕は階下に向かう。すると、もう全員が集まり、席について母さんの料理を待っていた。後は運ばれてくるのを待つだけだ。
三分と経たず、テーブルの上は料理で埋められる。いただきますと全員で合唱して、夕食を食べ始める。
「ゲンキくんももう祭の準備をしているようだ。今年は少し早いな」
「ワタルのお父さん?」
僕が聞くと、お祖父様は頷き、
「燭台はいつも、彼が用意しているからな」
そうなのか。あの幻想的な風景はワタルのお父さんが作り出すものだったわけだ。そんなことも僕はまだ分かっていなかったとは。祭について知らなければならないことは、まだまだ沢山あるのだなと思う。
「もっと知っていかなきゃいけないのかあ……」
「うむ」
僕の独白めいた言葉に、お祖父様は力強く頷いた。
*
夕食後、僕は緑川家に電話をかけた。クウと話がしたかったからだ。鴇村では、固定電話を置いている家は少ないが、地主の家には電話が必ずある。いざという時に連絡がとれないようではいけないからだ。
接続音が何度か繰り返された後、クウの母親の声が聞こえた。
「はい、緑川です」
「もしもし。青野光ですけども。クウちゃん、いますか?」
「ああ、ヒカルくん。ちょっと待っててね、すぐ呼んでくるから」
保留音。しばらくして、クウの元気な声が響いた。
「お待たせー。どうかしたの? ヒカル」
「いや、特に用ってほどのことでもないけど……。聞きたいことがあって」
「なになに?」
「タロウとジロウくん、今はどこか、村の外の病院にいるのかな」
「あー……そうみたいだよ。パパが言ってた」
「そうなんだ」
彼女の口振りは自然だ。とりあえず、そういうことなのだろう。
「千羽鶴、いつ届けられるかなあと思ってさ」
「そうだなあ。タロウくんもこっち帰ってくるかもだし、明日また車出してもらうときに、届けてもらうことになると思うよ」
「ああ、良かった。早いほうがいいよね」
「だねー……はやく力になってほしいよ」
心の底からそう思っているように、クウは言う。その声が、とても心に響いた。
「聞きたかったのはそれだけ。それじゃ……おやすみ」
「はいはい。おやすみなさい、また明日ね」
「また明日」
受話器を置く。それからしばらく、僕は電話の前に立ち尽くしていた。
そして僕の、六月四日が終わった。
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