朝食もとらないまま、僕は緑川家へ向かう。戸を叩くと、意気消沈といった様子のクウが姿を表し、僕を家の中へと招き入れてくれた。
家にはクウだけしかおらず、どうやら両親はタロウくんの家に行っているようだった。
クウは僕を部屋に案内すると、椅子にへたりこむようにして座った。
「……今日の早朝、四時ごろだったんだって……」
ぽつりと、呟くように話し始める。
ジロウくんの最期を。
「突然のことだったって。突然アラームが鳴って、見に行ってみたら心臓がほとんど動いてなくて……。そのときのジロウくんの顔は、ただ静かに眠っているようにみえて、でもそれは意識がなくなってたからでね……」
「……うん」
「一生懸命、ジロウくんを助けようと頑張ってくれたらしいんだ。最後まで諦めずに頑張ってくれた。でもジロウくんは、頑張れなくて……」
それ以上を言えなくて、クウは両手で顔を覆い、嗚咽を漏らす。僕はただ静かに、それを見守るしかなかった。
――ジロウくんが、死んだ。
僕はそれを聞いたとき、正直あまり現実味が沸かなかった。それを脳が受け入れようとしなかったのだ。
だから、こうしてクウの話を聞いている今ですら、涙の一筋も零れてはこない。
それはきっと、理解すれば、今のクウのようになってしまうからなのだろう。
それを、僕の脳は必死で押さえ込んでいる。
「タロウくんがね、ジロウくんの最期……ちゃんと見てあげてたんだって。それならきっと、寂しくなかったのかな……ねえ、そうなのかな……ヒカル」
「……そうだよ。大丈夫、きっとそうだ」
クウにすがられて。
僕の痺れた脳は、少しずつ動き始めてくる。
彼女をそっと抱き締め、その頭を撫でる。
そこでようやく僕の目に、涙が溢れてきた。
「……ジロウくんは……飛び立ったんだな……」
その事実を、僕は口に出すことで受け入れた。
*
葬儀まで、僕はクウのそばにいることにした。クウの父親は葬儀の準備に出ているらしく帰ってはこず、母親だけが帰ってきて、僕の分まで早めの昼食を作ってくれた。クウの母親は、僕が勝手に上がりこんでいることに、特に何も言うことなく、むしろ弱々しくではあったものの、微笑を浮かべてくれた。そばにいてあげて、という意味なのだろうか。
会話は皆無に等しい。それでも僕は、クウが何か言うたびに相槌を打ち、支えようと試みていた。
そんなときだった。
「……ウチってさ。昔から、この医院やってるでしょ? 村が出来たときから、ずっとずっと。それは、村が出来たときの緑川家の当主の人が、お医者さんだったからなんだよ。……それなのにね、代が代わってもずっとお医者さんって、そんなの無理だったんだよ。ずっとなんて、続けていけるはずがなかったんだよ」
それは、昨日もクウが口にした言葉だった。村を出たいと思ったことがあるかと問いかけたとき彼女が言った、村に対しての不満。というより、批判。
そして、それは僕が思っている以上に深刻なもののようだった。
「ねえ……知ってた? もう緑川家にはね。医師免許を持ってる人がいないんだ」
「え……?」
そう、彼女の話の行き着く所は、そこだったのだ。
鴇村の慣習に縛られ、身動きがとれなくなって、ただひたすらに隠し続けた緑川家の真実。
「お祖父ちゃんの代までは、何とか努力して医師免許をとってたみたい。でも、お父さんは駄目だった。お母さんも一緒に頑張ったらしいけど、やっぱり駄目だった。……二人とも医師になれなかった。じゃあ、医院を続けていけない。鴇村の人たちを、誰もちゃんと診ることができなくなる。……そうなってはいけないからって、両親は医師免許もなく、医院を続けることにしたんだ。そしてそれを、村は承認した」
「承認って……そんな」
「知ってるんだよ。大人たちはみんな。最後に決定を下した、ヒカルのお祖父ちゃんも勿論」
「なんて、ことを……」
信じられなかった。村全体で、その事実を黙認し続けていたなんて。
確かに、医者は必要だろう。だが、医師免許を持たない人間の診察を受け入れられるというのか?
そこに僅かの不安もなかったというのか?
僕には、理解できなかった。
いくらそれが、受け継がれてきた流れだったとしても。
「そんなことをしても、結果的に誰も得をしないじゃないか。村の人たちもそうだし、それにクウの両親だって、……」
「そうだよ。誰も、救われないんだよ。それが今だよ。こうして医師免許もなく病気を診続けて、ジロウくんの病気にも気付かず、手遅れになって。……誰も救われなかった。皆、悲しくなっただけだった。こんなの……こんなの、あんまりだよ……」
「クウ……」
クウは、どちらの悲しみも目の当たりにしてきたのだ。
救われなかったジロウくんと、その家族と。
救われなかった両親と。
だから彼女の悲しみもまた、重い。
彼女もまた、救われなかった者の一人なのだ……。
「……いつか。ううん、すぐにでも」
僕は、優しく語り掛けるように、彼女に言う。
「こんなことがなくなって、全てが自由になれば。……今みたいに泣かなくても、いいのにね」
その言葉に、クウはただ泣き続けるばかりだった。
*
時間はだらだらと過ぎ、二時半になった。
葬儀は三時から始まるということだったので、僕とクウは家を出ることにした。クウの母親は一足先に家を出ていたので、二人で出発することになる。
道の先に、ワタルとツバサの姿を見つけた。二人の背中は寂しげで、手を繋ぎ合って歩いていた。
それを見て、僕もクウの手を握る。
「……ありがと……」
照れ臭そうに、クウは僕に感謝の言葉を述べた。
見てからしか気付けないなんて、ありがとうといわれるほどじゃないのだけれど。
僕らは静かに式場に入った。葬儀の際には、神社の本堂が式場になるのだ。既に殆どの人が集まっていて、席はあと三つ、四つほどしか空いていなかった。二つ並んで空いている席が偶然あったので、僕はクウとその席に座る。
辺りを見回してみる。前方にはジロウくんの両親がいた。父親は参列者にあいさつし、母親は静かに座っている。参列者側の席には、クラスメイトの姿がちらほら見えた。ワタルとツバサも真剣な表情で座っている。
……ふと、気付く。タロウの姿がなかった。
「……タロウ、まだ来てないのか」
「ひょっとしたら……来ないつもりなのかもしれないね」
クウが呟く。
「こないって、そんな……」
「だって。……一番近かったんだもん。認められない気持ちは、きっと……誰よりも強いと思う」
「……」
「だから来なくても、誰も……責められないよ」
「……そうだね」
クウの言う通りだ。これが最後の、別れの機会だとしても。そんなにすぐ、死というものは受け入れられるものではない。
薄情などではない。……いつか受け入れられれば、それでもいいだろう。
やがて、堂内が静まり返る。後ろをちらりと見やると、法衣を身にまとったワタルの父親が入ってくるところだった。ゲンキさんは、葬儀全般を任されているため、こうして死者に経を唱える役目も担っているのだ。
心なしか、ゲンキさんも緊張しているように見えた。あまりにも早すぎる死だ。いつもとは違う感覚があるのかもしれない。
ゲンキさんは用意された座布団の上に正座すると、読経を始めた。
静かに、内側から響いてくるような声。それが、涙腺を刺激する。
誰もが静かに、ゲンキさんの口から紡がれていく言葉の羅列を聞いている。
祈りのような言葉を聞きながら、自分たちもまた、ジロウくんのために祈っている。
そうして、長い読経が終わると、家族たちから別れの言葉が読み上げられた。それを聞きながら、僕はまだジロウくんに祈りを捧げていた。
どうか、安らかに。
鳥のように、空へ羽ばたいていってほしい。
それも黒きカラスとしてではなく、
白きトキとして――。
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