僕は半ば諦めつつも、彼女を取り巻く環境に変化があってやっぱり辞めないといった事にならないかと願っていた。
坂本さんと飲み明かしてから数日後の洗い場二人シフトの土曜日、店に向かい洗い場へ入ると、先に入っていた細谷が話しかけてきた。
「カワっち! アイちゃん辞めるらしいぜ!」
「……そっか」
「んあ? もう知ってるのか」
「ん? ああ、なんとなくはね」
「思ったほど落ち込んでないんだな」
日曜日もシフトが入っていた。
「タカシくん! アイちゃん辞めるらしいよ!」
「……みたいだねえ」
「え? 驚かないの?」
「ん? ああ、もう聞いたんだよね」
「そうなんだ! でも思ったより元気そうで良かった!」
やはり、そんな都合良く状況が変わるわけがなかった。
僕は絶望に打ちひしがれつつも、極力落ち込まず平静を装おうとしていた。おかしな態度を取って噂が広がり彼女が辞める時に嫌な気持ちになってほしくない。
坂本さんに改めて送別会企画の相談をし、社員やバイトに声をかけてもらう事になった。僕もバイトで会う人達に声をかける事にした。
「ちょっといいかな」
僕はホールと調理場の間の少し奥まった狭いスペースでまかない飯を食べているラガーと栗原さんに声をかけた。
「あ、川村さん!」
「ん? どうしたの?」
「川村さんって大貫さんの事好きなんですよね!」
「え? ああ……うん。そうだけど……どうしたの急に。ていうか、なんでその事を知ってるのさ」
「ここで知らない人はいないと思いますよ!」
「そうなんだ……」
「この前、ボブが好きな子とのトラブルで落ち込んでたみたいなんですけど」
「ん? うん」
「大貫さんが、川村くんなんて私がつれない態度を取ってても諦めないでずっと好きでいてくれてるんだからボブも簡単に諦めちゃダメだよって言ってくれたって話、知ってます?」
「な……なんじゃそりゃ……そんな話知らないんだけど……」
「川村さんって一途なんですねー」
「は? え? な……」
「川村さん! 私、応援してますから!」
「え……あ、ありがとう……」
(大貫さんがそんな事を……一体どういうつもりで……というかなんでここはすぐに噂が広まるんだ……)
昼のメロドラマに夢中になっているおばさんのように目を輝かせている栗原さんの隣に座っている、松崎しげるかと思うくらい真っ黒な顔をしたラガーはラーメンどんぶりに山盛りにご飯をよそってドッヂボールのようになっているまかない飯を口いっぱいに頬張りながら神妙な顔をしてうんうんと頷いていた。
「でね、ちょうどその大貫さんの事なんだけどね。辞めるっていう事だからお別れ会を……」
「大丈夫です! 川村さん! まだ辞めるまで時間はありますから! 諦めちゃダメですよ!」
「え……あ、ありがとう……」
全く話が進まない。なんでここの連中は人の話を聞かない奴ばかりなんだ……
「で、それは頑張るんだけど、そうじゃなくてね?」
「え? 大貫さんの話じゃないんですか?」
「いや、そうなんだけど……お別れ会をするから参加してくれないかなって話なんだよね」
「ああ、そういう事ですか! それならそうと最初に言って下さいよぉー」
「ご、ごめん……」
(なぜ謝らなければいけないんだろう……)
「それで、いつなんですか?」
「まだ決まってはないんだけど、平日だと学校とかあるからなるべく大勢集まれる日曜日にしようかと思ってるんだよね」
「日曜日ですね! わかりました! いつの日曜日でもいいですよ! ねっ!」
急に同意を求められたラガーはまかない飯をやはり口いっぱいに頬張りながら目をキョロキョロさせてうんうんと頷いていた。
「ありがとう。じゃあ、やる日が決まったらまた連絡するよ」
「はーい」
(よし。とりあえず二人確保だ)
そんな風に新たに人に会えば聞いて回る日々が二週間程続き、大貫さんが出勤する日がやってきた。
久しぶりにお目にかかれる! と上機嫌で店に入ると、何か店の雰囲気がおかしい。
奥に向かうと、大貫さんがホールと調理場の間の物陰で立ったままうつむいて肩を震わせていて、何人かの女の子が心配そうな顔をして声をかけている。そしてその様子を他のホールメンバーが無言で見つめている。
「どうしたの⁉ なにがあったの?」
僕は近くにいたマユちゃんに声をかける。
「なんかね……前にアイちゃんがそこの新人慶応ボーイにハンカチを貸してあげたらしいんだけどね」
「うん」
「返ってきたらカビが生えてたみたいなの……それがすごく大切なハンカチだったらしくて……」
「マジか……」
マユちゃんが目配せした先にはその新人慶応ボーイが申し訳無さそうな顔をして突っ立っていて、その視線の先には大貫さんがいた。
ハンカチを握りしめたままうつむいて涙を流している大貫さんを見ると胸をえぐられるような痛みが走る。
不意に僕は大貫さんに近づき、声をかけた。
「大貫さん……大丈夫?」
「ハンカチ……なんとかならないかちょっと試してみてもいいかな」
「……」
大貫さんはうつむいたまま、ゆっくりハンカチをこちらに差し出す。
「ありがとう。ちょっとやってみるね」
僕はハンカチを受け取ると急いで調理場へ入り、中にいてホールの様子を見ていた坂本さんへ話しかける。
「坂本さん! これなんとかキレイにしたいっす!」
「おう! 色々試してみるか!」
平日のちょうど客が途絶えたタイミングで良かった。一緒に試してもらえそうだ。
二人はまず最初に洗い場にあった洗剤をつけてこすってみた。
「全然取れないですね……」
「そんな簡単には落ちねえか……」
「食洗器かけてみましょうか。熱湯の力で落ちてくれないですかね」
「よし、やってみるべ」
僕は食洗器に入れる大きなトレイの真ん中にハンカチを置いて食洗器を作動させた。
「うーん……」
食洗器から出てきたトレイを囲み二人は唸った。全く落ちていない。
「手強いな……」
「ええ……」
「あ、ピューラックスとかどうですかね!」
「おお、いいかもな!」
「でも、ハンカチ色落ちしちまわねえかな」
「うーん……とりあえずやってみましょう」
厨房では一日の最後にまな板や調理器具などをピューラックスという殺菌消毒剤を希釈した水に漬けて帰るのだが、洗っても食材の色が少し残っているまな板が次の日には真っ白になっているのでカビも消えるかもしれない。
僕と坂本さんはピューラックスの原液をボウルに入れ、そこにハンカチを漬け込んだ。
ホールを見ると、皆は仕事に戻り、大貫さんもお皿を拭いたりお茶や紹興酒を用意したりといった裏方作業をしていたが、顔色が悪く、辛うじて仕事をしている感じだった。
「ちょっと……辛そうだな……」
「ええ……」
「もう少しアレ(ハンカチ)の様子をみたらとりあえず帰した方がいいかもな」
「ですね……」
十五分からニ十分くらいは経っただろうか。
「おおお……」
「お、どうよ」
「けっこう落ちてる……」
「おお! すげえじゃん!」
ハンカチに黒く点々としていた黒カビが、よく見ないとわからないくらいには薄くなっていた。
僕と坂本さんはハンカチをすすいだ後もう一度食洗器にかけ、傷まない程度に絞ってホールで辛そうにしている大貫さんの所へ持って行った。
「大貫さん……」
「完全には取れなかったけど……」
そう言って僕はハンカチを彼女の目の前へそっと差し出した。
「ありがとう……」
少し驚いた表情を浮かべて大貫さんはハンカチを受け取った。
「アイちゃん、具合い悪そうだから今日はもう帰りな?」
「え? でも……」
「店長とかにはオレから言っとくから」
「……」
「わかりました。ありがとうございます」
泣いてしまって疲れたのだろう。大貫さんは元気になる事無く先に帰っていった。
(あと何回一緒に仕事ができるんだろう……)
僕は何とも言えない悲しい感情に襲われ、急激に身体から元気が無くなっていくのを感じていた。
それからというものの、日が経つ程に食欲が無くなり、元気も無くなっていった。
社員、バイト達の都合も大体聞き、お別れ会の日が決まり、更に食べ物が喉を通らなくなった。
そして、お別れ会の日がやってきた。
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