誰がが肩をゆすった。
目を開けると、息子の翔太郎の顔があった。昨日、幼稚園でつけてきた額のバンソコが取れかけている。
「おはよーママ!」翔太郎がベッドに飛び乗った。
「おはよう」彼女は身を起こし、彼の頭を撫でると、バンソコを貼り直した。
室内を見まわす。
ライトブルーの掛け布団。ターコイズ色のカーテン。品川水族館で買ってきたイルカの風鈴がエアコンの風に吹かれ、静かに揺れている。
横浜市神奈川区にある、マンションの寝室だ。間違っても、イリノイ州クエストヒルのジョリエット刑務所ではない。
安堵のため息をつく。
あんな悲惨な死に方は二度とごめんだ。現世では、穏やかな日々を送りたい、この息子に見守られながら逝きたいものだ。
夫の直倫がフライパンを片手に、リビングから顔を覗かせる。
「おっ、ようやく起きたか」
「もう」彼女は頰をふくらませた。「今日はゆっくり寝かせてくれるっていったじゃないの」
「ああ、でも、もう十時だぜ? たしか十一時半から保土ヶ谷公園で、ゆるキャラコンがあるんじゃなかったっけ? メイク時間を考えたら、ギリなんじゃないか?」
「えええ?!」
彼女は飛び起きると、洗面所へ突進した。洗面台の鏡に自身の姿が映る。
大津恵美奈、二十九歳。身長百七十一センチ、体重五十三キロ。会員制焼肉チェーン〝ニクマシン〟社長、神奈川県地域おこし協議会副会長。既婚、五歳の子持ちだが、プロポーションはピラティスでしっかり維持している。くびれた腰にハリのある胸。肌にはくすみひとつない。手入れしている髪は、絹の滝となって肩口に降り注いでいる。
顔を洗ってリビングに戻ると、テーブルの上にハムエッグとトースト、ポテトサラダ、コーヒーが並んでいた。
夫の直倫の頰に口付けると、手を合わせ、手早くかきこんでいく。
直倫が隣に座り、テレビをつけた。
「お、三時過ぎから崩れるみたいだな」
翔太郎が、彼女の向かいに座った。オレンジジュースをすすりながら、彼女そっくりの顔で頰をふくらませる。
「ぼく、雨きらい」
直倫がその頭を撫でる。
「そういうなよ。せっかくママがコンテストに出るんだ。応援に行かなきゃ」
「いいのいい!」彼女はフォークを振った。「風邪でも引いたら大変だから。それにわたしの趣味なんだから、あなたたちが付き合うことないのよ。二人で映画でも見てきたら? ほら、スターウォーズの新しいやつとか」
「いいの?!」
直倫と翔太郎が、声をそろえて腰を浮かした。
あわただしい食事を済ませた後、彼女は最低限のメイクをした。もともと、目鼻立ちが整っているので、すっぴんでも問題ないくらいだ。それに、今日は顔を人目にさらす機会は少ない。
ロペピクニックの寝間着を脱ぎ捨て、ユニクロのジーンズとティーシャツに着替える。ソファの肘かけに置いていた財布とスマホを尻ポケットにねじこむと、二人に手を振って駆け足に家を出る。
愛車のボルボに乗り込み、エンジンをひとふかしして、路地から国道一号に飛び出した。
時速六十キロで車間をすり抜け、渋滞箇所は裏道を使い、新記録の二十二分で県立保土ヶ谷公園の第三駐車場に滑り込んだ。
公園はすでにおおぜいの人間で賑わっていた。
白い仮設テントが立ちならび、日本各地のB級グルメの幟がはためいている。糸魚川市黒やきそば、琵琶湖日野菜めし、心斎橋ホルモンうどん。肉の焼けるジューシーな匂いが、風にのって鼻をくすぐる。ステージショーが始まっているのか、沖縄風の民謡が街頭に据え付けられたスピーカーから響いていた。
彼女が、ボルボの荷台から台車を出していると、隣に止まっていたアクシオの窓が開いた。
「やっ、おひさしぶり!」
そういって手を挙げた男は、全身白タイツに真っ赤な梅干しのかぶりものをしている。
「あら、梅マンさんじゃないですか。代々木公園以来ですね」
「さすがに和歌山から遠征するのはきつくてね。皆勤賞は狙えないよ。それより、ランドマーくん、調子いいね。こないだの仙台じゃ三位に入ったんだって? やっぱり、しゃべる設定があるのはつよいね」
「梅マンさんはパントマイムがあるじゃない」
彼女はいいながら、車から巨大なダンボール箱を取り出した。縦横一メートル近い。台車の上において、蓋を開け、中身をチェックする。
梅マンが車から降りてきて、箱を覗き込んだ。
「へえ、あんなにデカイ着ぐるみなのに、こんなにコンパクトになるんだ」
「ポリウレタンじゃなくて、カーボンを骨格に使ってるんです。曲げられるし、軽いし、洗えるし。いいことづくめですよ」
「ふーん。なら、すぐに洗ったほうがいいね。ほら、ここ、なんかデカイシミがついてるよ。この色合いからすると、キムチ系の料理でしょ。B級グルメ系のイベントと併催してくれるのは嬉しいけど、お客さんに汚されたときのダメージがつらいよね」
「うわー、気づかなかったなあ」
彼女は笑顔で着ぐるみのパーツをなでた。
いつ、ついたのだろう。
おそらく、先週のイベントで楽しんだときだ。あのときにバラした女の子の血に違いない。
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