次の俺は、オルゲトリックスの二十三人目の息子、クリアロスだった。オルゲトリックスが四十三のときの子供だ。
クリアロスはカロスと異なり、オルゲトリックスの性質をよく受け継いでいた。幼少期から体格がよく、三歳にして通常の六歳児ほどの背丈があった。手足は骨太で、しっかりと肉がつき、それでいて動きは俊敏だ。
前世記憶が戻ったのは、なんと四歳と六ヶ月のときだった。これだけ幼い時期だと、まだ自我というものが固まっていないので、人格の統合はスムーズに行われた。
俺はオルゲトリックスを親の仇と憎む子供であり、オルゲトリックスに殺されたオルゲトリックスの息子カロスであり、オルゲトリックスに瓜二つな子供クリアロスが入り混じった存在となった。
記憶が戻るや、俺は訓練に熱を入れ始めた。それまでにも、十四になるまでに力をつけておかねば「間引かれる」という噂は聞いていたが、いまはもう噂などではないことを承知していた。
このオルゲトリックス拳闘団ーーギレイトスは二年前に怪死し、彼の息子たちも不可解な死を遂げた。遺言書に記載された人間のうち、まだ生きているものはオルゲトリックスしかいない。むろん、オルゲトリックスによる暗殺を疑うものも多かったが、彼自身にちらとでも疑惑をぶつけたものは、数週間以内にテーベ川に浮かぶことになるので、いまや異を唱えるものはなかったーーは、ローマ格闘界の超一流ブランドだ。所属闘士数百十二は、皇帝のお抱え拳闘団に次ぐ規模で、オルゲトリックスおよび年長の息子たちの強さは圧倒的。とくに三百戦無敗のオルゲトリックスの人気はすさまじく、いまや皇帝の名は知らずともオルゲトリックスの名を知らないものないまでになっていた。
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「貴様、名はなんという?」
選別の日、因縁の食堂でオルゲトリックスがいった。俺の目線は彼と同じ高さにあった。俺の年齢は十四歳。だが、十四歳としては破格に大きい。腕も足も筋肉ではちきれそうだ。胸も背中も分厚い。
俺の手は顔の前で、繰り出されたオルゲトリックスの拳を受け止めていた。
オルゲトリックスの力と俺の力が拮抗し、互いの手が小刻みに震える。
俺たちの気に反応したのか、燭台の上のろうそくの炎が激しくゆらめく。
俺の髪の毛を後頭部でまとめていた紐が千切れ、真っ赤な髪が眼前のオルゲトリックス同様に広がった。
拳闘団の管理人を務める小男が、オルゲトリックスの脇で答えた。
「クリアロスです。ご主人様。テッサリアのカミネの息子です」
オルゲトリックスが笑った。
「ひさしぶりに俺の息子が生まれたな。誰以来だ?」
「名を与えられるのは、三年前のダイダゲネス様以来となります」
俺の周りには十人の子供たちが這いつくばり、うめいていた。腕を折られているもの、足を折られたもの、脳震盪を起こして昏倒しているもの、さまざまだが一様に髪の毛が赤い。彼らはオルゲトリックスの試験に合格できなかったのだ。みな、農奴もしくは鉱山奴隷として売られていく運命にある。
俺はオルゲトリックスの拳を止めた手に力を込めた。
端折れるか。
そんな思いが掠めた瞬間、オルゲトリックスの膝蹴りが腹に突き刺さった。
俺は両膝を床板についた。
オルゲトリックスの拳が、俺の顔面にめり込む。
俺は鼻血を撒き散らしながら転がった。
信じがたい打拳速度だ。まるで反応できない。
俺は寝転がったまま折れた鼻をつまみ、思い切りひっぱって骨の位置を合わせた。
激痛が走るが、かまわずに立ち上がり、構える。
オルゲトリックスがいった。
「悪くない反応だ。こいつを六日後の試合に回せ。皇帝のところのやつらと当ててみたい」
「六日後と申しますと、近衛隊との五人合戦で?」と、秘書。
「そうだ。ヴァルギリアスと入れ替えろ」
オルゲトリックスが俺を見た。
「強くなれ。強く鳴ればすべてが手に入る。栄誉、金、女、子、望むがままだ」
俺は鼻血を拭った。
俺が望むもの?
「俺が欲しいのは自由だけだ」
それとあんたの命。
俺は親の仇と俺の仇を忘れはしない。
それがいま現在の父だとしてもだ。
オルゲトリックスが歯を剥き出しにして笑った。
「拳闘奴隷が自由市民となるには百勝する必要がある。だが、いいことを教えてやろう。俺だ。俺を殺せばお前は即座に自由となる。それだけではない。俺の財産のすべてがお前のものになる」
意味がわからない。奴隷が自由市民を殺せば死罪だ。ローマ法にて厳格に定められている。
秘書が咳払いした。
「旦那様は自分で自分の首に賞金をかけていらっしゃるのです。いかなる手段を用いてもよいので旦那様を殺害したものは、この屋敷および拳闘団のすべて、さらに金貨二千枚が与えられます。もちろん、まだ達成したものはおりません」
俺は首をかしげた。
「なんでそんなことをする」
「お前にはわからんか?」と、オルゲトリックス。
「ああ、まったく」
オルゲトリックスがテーブルに腰を下ろした。
「俺も自由が欲しいんだ」
皿にのっていたウニを素手で割り、魚醤をかけてすする。
「俺はお前と同じ生まれついての奴隷だ。俺が生まれた拳闘団はここみたいに楽なところじゃなかった。成人まで生きられるのは五十人に一人がいいところだ。訓練についていけなければ死ぬ。試合に負ければ死ぬ。つまり弱ければ死ぬ。幸い、俺は強かった。俺は自由を得るために戦って戦って戦い続けた。勝てば勝つほど心が安らいだ。俺は自分の強さを肌で感じ、自由を感じた。やがて百勝して、戦う必要はなくなった。俺は闘士を引退し、やがて不安が戻ってきた。
わかるか? もし、この世に俺より強い相手がいれば、俺は自由でなくなる。そいつがきまぐれを起こして俺を殺そうとすればそれまでだ。
だから俺は闘士に復帰した。俺は俺の強さを確認し続けたいんだ。誰よりも強い奴らに挑み続け、勝ち続ける。それで俺は自由を感じられるんだ。
自分に賞金をかけたのもその一環だ。おかげで、これまでに四度、腕利きの暗殺者が来た。息子たちを選別するのも同じだ。なにしろ、俺の子供達だからな。クリアロス、お前はとくに見込みがある。俺を前にしてなおその闘志、その殺意。どういう理由でお前が俺を憎むのかは知らんが、その調子だ。いつでも俺を襲え。そして、俺に自由を感じさせろ」
俺は鼻血を拭った。
「あんたは俺の父親の仇だ」
オルゲトリックスが眉をあげる。
「ほう。それは、じつに興味深い」
俺はテーブルのナイフを掴むと、オルゲトリックスに飛びかかった。
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