骨の刃が、七王子の首筋をかすめた。
彼がとっさに身をひねらなければ、数センチにわたって動脈を切り裂いただろう。彼はバランスを崩すと、慧と入れ替わるように牢内に転がり込んだ。
彼女は舌打ちしながら、ホール中央にぶら下がっている第二夫人の遺体の後ろに回り込んだ。
七王子が体を起こす。ゆっくりと拍手する。
「いや、すごいよ。すごい。いまの殺気! たいしたもんだ。前世が警官? とんでもない! 君は俺のご同類だ! なんていう運命だ。やはり君は俺と巡り合うして巡り合ったんだ」
バレた。七王子から油断が消えた。
「それにしても見事だよ。君の中にいる殺人鬼が誰かは知らないけど、まさかそんな方法でナイフを作るとはね。いや、手錠もそれで抜けたのかい?」
彼女はナイフを握りなおした。
刃渡り二センチほどの小さなナイフだ。
素材を手にした時の興奮が、かすかに蘇った。人間ミキサーが第八夫人の遺体を砕いた際、骨のかけらが部屋中に飛び散った。慧は牢内に転がってきた指をとっさに握り込んだ。
加工には自分の歯をつかうしかなかった。
生肉の味と、骨のカリカリした歯ざわりがまだ口内に残っている。
「テッド・バンディよ」
「あ?」
「わたしの前世」
「おお! おいおいおい! バンディ? あのバンディなのか? すごいな! 俺、ゲイリー・ハイドニック以上の有名人じゃないか!?」
七王子=ハイドニックが無造作に距離を詰めた。槌のような拳が空気を裂き、彼女の頬を掠める。彼女は距離を取りながら、その拳に骨のナイフを沿わせた。七王子が拳を戻す勢いで肉が切れる。
「おお?」彼が血の滲んだ拳を見つめた。
彼が笑った。
「ハイドニック対バンディ、史上初のシリアルキラー同士の戦いだ。盛り上がるねえ」
「シリアルキラー? あなたが?」慧は喉の奥を鳴らした。「あなたなんか、バンディに比べれば、ただの雑魚よ。たしかに、いまのあなたは肉体的にはわたしを上回ってる。でも、殺しの経験値はどうかしら?」
慧は二人の間に ぶらさがっていた第二夫人の遺体を押した。肉塊となった体が、ゆっくりと七王子に向かう。
彼がわずかに体を引いた隙に、彼女は彼の足めがけ飛びかかった。サンダルばきの甲にナイフを突き刺す。骨の先端が、皮膚を破り、肉を裂き、裏側へ抜けるのがわかった。
彼が、英語で毒づきながら目をつぶさんと指を突き出す。彼女は額で受けた。指が折れる。彼女は彼の足の甲からナイフを抜くと、傷口に指をつっこみ、足をすくい上げた。彼が悲鳴をあげた。バランスを崩して転倒する。
彼女は素早く彼の上に這い上がると、刃先を首筋に添えた。「助けてくれ!」彼が叫んだ。彼女は躊躇せず、刃を引こうとし、動きを止めた。
頭の中で、二つの感情が入り乱れていた。殺人に対して忌避感を持つ彼女と、喜びを感じる彼女。かつてテッド・バンディだった部分が、数十年ぶりの行為に歓喜しているのがわかった。あとほんの数センチ刃を動かすだけで、腰の下の獲物の首から真っ赤な血が噴出する。
我慢が堪え難いほどに欲求を膨らませた。童貞が裸の美女の前でお預けをくらうようなものだ。心が勃起している。テッドが、出しちまえと叫んでいる。
突如、施設内に警報が鳴り響いた。
一瞬、眼下の七王子から意識が逸れた。
彼はそれを見逃さず、慧の髪を掴むと床に引き摺り下ろし、彼女に馬乗りになった。
歯をむき出していう。
「このクソ女。ぶっ殺してやる」
七王子の太い指が彼女の首筋に巻き付いた。必死で引きはがそうとするが、腕力に差がありすぎた。指は容赦なく頚動脈に食い込んでくる。
キーンという音とともに、視界が紫色に染まった。居眠りするときのように意識が密度を薄めていく。気道がつぶれ、溺死同然の苦しみが肺を締め上げる。
甲高い警報が耳をつらぬく。
彼女の手が助けを求めるように宙をかいた。
七王子が笑う。
「何をしているんだ? 泳ぎの練習か?」
彼女の手は空間をさまよい、相手の股間にたどりついた。七王子が一瞬ニヤついたあと、「おい、待て!」と叫んだ。
彼女はそのまま睾丸の一つを捻り潰した。
☆☆☆☆☆☆
七王子が絶叫する。
指が首筋から離れた。彼女は床に大の字になり精一杯空気を吸い込んだ。一呼吸ごとに、脳に酸素が補充される。心臓が痛いほどに脈打っていた。
意識が覚醒するにつれ、七王子の叫びがクリアになっていく。
誰かが、外界とホールをつなぐ鉄扉を叩いていた。外側から金属質な何かで殴りつけている。何をどうやっているのか、みるみるうちに扉は変形し、ついに電子錠が弾け飛んだ。
扉がゆっくりと開く。
夕、いや、“兄”が首を突き出した。
「失礼するぜ」そういいながら室内に踏み込み、後ろ手に扉を閉めた。
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