七王子が、天井から吊り下がった第二夫人にバケツの水をかけた。
長い金髪が額に張り付く。
第二夫人が意識を取り戻した。自分に何が起こったのか理解していない様子だ。挙動不審に周囲を見回し、その視線が七王子に止まった。歯が折れているせいか、くぐもった声でいう。
「ねえ、いったいなんなの? なにか誤解があると思うんだけど」
七王子がミキサーのレバーを倒し、また戻すことを繰り返す。エンジンがふきあがり、黒煙が底面から立ち上る。
「誤解は、ない」
第二夫人が顔を歪めた。
「あるわよ! だって、わたしたち何もしてないもの。なのに、なんでいきなり殴ったうえに、こんなことするわけ?」
「お前たちはした」
「なにをよ!」
「裏切りだ。それもただの裏切りじゃない。この世でもっとも醜い行為だ。相手と信頼を築いた上で、それを利用したんだ」
第二夫人の瞳に、かすかに怯えの色が走った。
「そんなことしてない」
「お前はさきほど、俺にマスターキーを要望した。お前ほど古株の妻なら、あのキーが厨房のキーになっているだけでなく、この施設と地上の小屋をつなぐ扉のキーであることも知っていたはずだ。だが、俺はお前を信頼した。調理作業をするというお前の言葉をな。だから渡した。ところが、お前たちは一目散に外界との扉を解錠しようとした。残念なことだが、お前に渡したのは正規のマスターじゃない。こういうときのために作っておいたサブマスターだ。この施設内ならどこでも入れるが外にだけは出られない。俺は常にマスターとサブ、二枚のカードを持っていた」
「嘘、なんでそんなーー」と、第二夫人。
「なんでだと? それはな、貴様のようなクソ女は前世にもいたからだよ! 俺はクソを信用していた。一番俺を愛し、俺を信頼し、関係を築いてきた女を。ところが、あいつは俺の家から逃げたかっただけなんだ。そのためだけに、あえて他の女たちを積極的に攻撃してたのさ。俺はまんまと引っかかって、あいつを外に出した。すぐに警察が来て、俺の人生は終わった」
七王子が笑った。
「この現世で、同じ轍を踏むとでも思ったか? 大間違いだ! 俺は二度とお前のようなクソには騙されない!」
☆☆☆☆
「このクソが!クソが!クソが!」
七王子は、すでに事切れている第二夫人を執拗に殴り続けた。第二夫人の頭部は原型を留めていない。
七王子のスマホが再びなった。
彼が殴る手を止め、いぶかしげにスマホを確認する。
「誰だ、こいつは?」
彼の問いに、電波の向こうの誰かが答えた。
「わかんない」彼の妹の声だ。「市役所から来たっていってたけど、嘘だと思う。うちのマンションは誰の持ち物か?だって。親が帰ってこないと分からない、って答えた」
「いい対応だ。いい子だぞ」
「ありがとう、ご主人様」
「お前は本当にいい子だよ」
七王子がスマホを尻ポケットにしまったところで、動きを止めた。首をゆっくりと捻り、慧の房に目を移す。
彼女は手錠を外し、房の前に立っていた。
七王子が唸った。
「どうやってーー」
慧は肩をすくめた。
「ASP社製77年式。かつてのFBIの正式装備。古いけど信頼性は高い」
「これは驚いた。君のような女子高生が、軍事オタクなはずがない。ということは、まさか、君も俺と同じ転生者なのか? アメリカの警官か何かだったのか? しかも、前世記憶が残っているとは。なんという奇縁だ。さすがに俺の妻だけのことはある」七王子が頭をかいた。「しかし、外せるなら、なんで今ごろ外した? もっと早く自由になれたんじゃないか?」
慧は笑った。
「あんたのやり方を、ちょっと見物したかったのよ」
「ほお、さすがは元警官だ。それでご感想は?」
「二流。とくにその人間ミキサーとかいう代物は、センスのかけらもない」
低速で作動していたミキサーが、ごうんと吠えた。
七王子が首をかしげて慧を観察した。
「この状況で、どこからそんな余裕が出るんだ? たしかに君は自由になったが、外に出るためのカードキーはここ、俺のポケットの中だ。それに、目の前にいる俺をどうやって突破する気なんだ?」
「もちろん、ぶっころしてよ」
「へえ」
七王子が面白そうに笑った。ティーシャツの上からでも、発達した筋肉がよくわかる。体重差は少なくとも三十キロはあった。
慧は全裸の自身を見た。美しい肢体だ。傷跡ひとつない。なめらかで、健康的で、エロチックでもある。完璧な女性の肉体。まともに七王子とぶつかっては勝ち目がない。いや、前世の肉体だったとしても、そう変わらないだろう。テッド・バンディは身長百八十センチ、体重八十キロ、鍛えてはいたが、七王子のほうが上だ。
戦力差を考える。表の小部屋にあった英字新聞を思い出した。七王子の前世であるハイドニックは、米陸軍の士官だった。となれば、マーシャルアーツを身に付けているはずだ。それに加え、現世の七王子は柔道部でインハイに出る実力者でもある。
一方の彼女は、現世でのスポーツ経験はない。テッドのときは、ジュードーとカラテを学んでいた。もっとも、ジュードースクールの教師がうさんくさい中国人だったことを考えると、はなはだ心もとない。
七王子はすぐに見抜いた。
「なあ、君、ひょっとして格闘技の経験がないのか? いや、あるにしてもトレーニングはさぼっていた?」
「そんなに初心者っぽい?」
「ああ、重心が高すぎる」
慧は微笑んだ。
「なら、さっさとかかってくればいいじゃない」
第三夫人が壁際からいった。
「七王子さま! 早くやっつけて! そんなこ、殺しちゃって!」
こういう女が、いちばんたちが悪い。彼女は思った。第一、第二夫人が死んだ今、第三夫人が序列のトップにいる。七王子が執着している慧がいなくなれば、ここは第三夫人のものだ。
七王子は慎重に彼女との距離を詰めると、残り数歩のところで身を沈めた。床を蹴り、猛スピードで突っ込んで来る。全身の筋肉が盛り上がり、肉体を鎧う。単純なタックルだが、非力な彼女にはなすすべがない。
ただし、こちらが素手ならばだ。
彼女は拳の中に握りこんでいた〝骨のかけら〟を、彼の頸動脈めがけ振り下ろした。
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