1976年 シアトル近郊
馬乗りになった男の拳が、メアリー・フレッドソンの鼻梁にめり込んだ。
鼻骨が砕け、鼻血が吹き出す。生暖かい血が黄色いワンピースの胸元を赤黒く染めた。
トウモロコシの葉が体の下でチクチクと彼女の肌を刺した。
「やめて、テッド、やめて!」
男が微笑んだ。綺麗な歯が車のヘッドライトの光に輝く。
「どうして?」そういいながら、カクンと首をかしげる。本当に不思議そうな声だ。
「どうしてってーー」
「君は苦しいかもしれないが、俺は痛くない」
彼はそういうと殴り続けた。
苦痛の花火が何十発と炸裂した。意識は白熱電灯のように点滅している。
男が彼女をひっくり返した。
金属音。両手首に冷たい感触があった。手錠だ。
男がワンピースをめくりあげ、下着をむしり取った。
20X X年 横浜
占い師が、真っ赤な付け爪でヴィジャボードをつついた。
「あなたの前世が見えてきたわあ」
ヴィジャボードはアルファベットが刻まれた木製の板で、オカルティックな“過去視”に用いられる。占い師と客がボード上に置かれた五セント硬貨に指を重ねる。すると硬貨が勝手に動き始め、必要な単語を示すのだ。
「テ、ド」占い師が読み上げる。
これはオカルトじゃないの。さきほど、占い師はそういった。客を暗示状態に落とし込むことで、忘却した前世の記憶が引き出され、客側の指が無意識に動くのだと。
「バン、デ、イ」
プレハブ造りの占い小屋の外、窓にかかった分厚い紫のカーテンの向こうでは、風が荒れ狂っていた。カーテンレールにぶらさがったマオリの呪い人形が、首吊り死体のように揺れた。
野々村慧は、占い師の言葉に、制服のスカートの裾を握った。湧き出した唾を飲み込むと、気管にひっかかりながら食道を落ちた。
隣に腰掛けていた姪の里奈が首を傾げた。センターで分けた長い髪が揺れる。
「てど・ばんでい?」
「さあ?」慧は首を傾げた。
連続殺人鬼よ。彼女は思った。七十年代にアメリカで三十人以上を殺した男。
唾をのむと、思った以上に大きな音がした。
なんなのこの占い師。
なんで、こんなところに来ちゃったのかしら。
慧はスカートの布地で手汗を拭った。
☆☆☆☆
学校が終わった後、横浜駅で母、叔母、里奈と合流し、秋冬物の買い出しを楽しんだ。高島屋のフルーツパーラーで一服した後、彼女は悠を連れて、少し離れたアミューズメントビルに向かった。一階はヤニ臭いゲームセンター、二階から三階はカラオケ、四階は雀荘、屋上には、昭和の遺物のようなミニ遊園地があった。
さび付いたレールを走るゼロ系新幹線に、高さ三メートルほどしかない観覧車、まったく見たことのないキャラクターのゴーカート、ペンキの禿げたメリーゴーランド。どれもありえないほど年季が入っているがその分安く、料金は一律百円だ。慧の小遣いでも、十分里奈を楽しませられる。
エレベーターが開き、屋上に出ると、台風が近づいているせいか、生暖かい風が二人の髪をかき乱した。
一階でUFOキャッチャーでもしよっか? そういいかけたとき、「あなたたちの前世を見てあげるわあ」と声がした。見れば、やすい作りのプレハブ小屋の前で、ひらひらした衣装に身を包んだ女占い師が手招きしていた。彼女の頭の上には、ネオン看板があり、ゴチック体で「占い 横浜の母 あなたの前世見通します!」とあった。
彼女はクスりと笑った。
あなたの前世はマリー・アントワネット、あなたの前世は織田信長、調子のいいことをいってチップをはずんでもらうアレだ。しかし、自分の前世を言い当てられるはずがない。
「いこーよ! みてもらお! 」里奈が手を引き、彼女は肩をすくめながら、ビニールの暖簾をくぐった。
☆☆☆☆
お香の香りが鼻腔をくすぐり、彼女を現在に引き戻した。
またつばを飲みこむ。ごくり、と音が響いた。
「そういえば、占い師さん、なんでこんなところに店を出してるんですか? 本当に前世を見られるなら、新宿とか渋谷に行くべきなんじゃないんですか?」
占い師が両手をあげた。
「鋭い指摘だね。じつは、わたしが前世を見られるようになったのはつい最近なの。ここだけの話、わたし自身の霊能力者だった前世を思い出して、前世視の方法を習得したの。プロとしてはまだ日が浅いから、借りられるのはここぐらいしかなかったわけ」
「はあ」
慧は相槌を打ちながら、横目でカーテンレールに釣り下がる呪い人形を眺めた。人形の首に巻きついている長く赤い紐。麻だろうか。細いが、がっちり縒ってある。
紐の強度は十分だ。
慧のなかで思考が渦を巻いた。
〝テッド〟であることがバレた以上、始末するべきかも。この占い師が、何かのはずみにテッドがどういう人物だったかを知りうるのは、十分にありえる。せっかく、あのおぞましい過去をリセットできたというのに、こういう些細なことから台無しになっては堪らない。
あの紐を首に巻きつければ、目の前の女は三十秒で意識を失い、二分で絶命する。いや、その前に里奈だ。右フックの一撃で頸椎をへし折る。ああ、いったいどんな顔をするんだろう。信頼していた、大好きな従姉妹が自分を殺すと知ったら。どんな素敵な悲鳴をあげるんだろう。
窓の外で風が唸り、呪い人形がカタカタと揺れた。
☆☆☆☆☆
三鷹巡が目を開くと、自室の天井が見えた。
カーテンの隙間から入り込んだ日光が、真っ白なモルタルを煌めかせている。壁際にはイケアの本棚がでんと構えていた。ミルトンの『失楽園』、バイロンの『マンフレッド』、イギリス文学の古典作品が原書でぎっしり詰まっている。
ベッドの枕元には、読みかけの『二都物語』。古めかしい金属製の栞が、鈍色に輝いている。さきほどまでの夢が消え去り、現実が戻ってくる。
息は荒く、全身汗まみれだ。心臓が激しく脈打っていた。
物心ついたころから、彼は毎晩、前世を夢に見る。そして、激しい怒りと恐怖、無力感に包まれて目覚める。かつては悲鳴をあげながら飛び起きたものだが、二十年も続けば、少しは慣れる。
大きく深呼吸し、胸に手を当てる。十秒としないうちに脈拍が落ち着いた。
体を起こし、枕元にあるラジオのスイッチを入れる。空電ののち、六時の時報がなり始めた。ベッドから出るタイミングで、ラジオ体操が流れる。音楽に合わせて十分きっかり体を動かす。
全身の細胞が目覚めたところで、壁にかかっていたコロコロクリーナーを取った。
床に敷いた無印のカーペットの上を丁寧に転がしていく。昨晩もかけているので、ゴミはほとんどとれないが、淡々と続けた。
儀式こそが重要なんだ。彼は思う。規則正しい生活、ルーティンこそが人を正しい行いへ導く。だから、たとえ、ゴミがなくともコロコロはかける。
シャワーを十分きっかり浴びたのち、きっちり折り目のついたスラックスと、痛いほどノリのかかったワイシャツを身につける。
キッチンで朝食の準備を整える。熱い紅茶にキッパー、ベイクドビーンズ、ソーセージ、そして牛乳に浸したポリッジ。伝統的なイギリス式ブレックファーストだ。現世にはポリッジの数倍美味しい“シリアル”があるが、彼は前世と同じメニューを続けていた。
テーブルにつき、紅茶を二口飲んで、テレビをつける。
いつもと同じように、七時のNHKニュースのオープニングムービーが流れる。
ヘッドラインニュースが並ぶ。
総理の訪中、東名高速で起きたタンクローリーの爆発、昨晩の強風がもたらした被害、横浜市内で起きている連続行方不明事件の続報。
思わずため息をついた。
最後のニュースは、もう何ヶ月もヘッドラインにとどまり続けている。
前世と同じだ。あのときもタイムズの一面を凄惨なニュースが独占し続けた。
ビーンズにフォークをさした時、テレビ画面の上部に速報のテロップが流れた。横浜市警が、指名手配中のシリアルキラー、立川慎之介を逮捕したのだ。
立川は、ひき逃げが専門だった。車を盗んでは、通学中の児童の列に突っ込む。これまでに二十人以上を殺している。
最後の事件は、横浜駅前のスクランブル交差点で起こった。検問に引っかかった立川が、スクランブル交差点に時速百二十キロで侵入したのだ。彼の乗ったランドローバーは六人を弾き飛ばし、鶴見川に転落した。ところが、肝心の立川の遺体が出なかった。マスコミは神奈川県警の大失態として盛り上がっていた。
巡は紅茶のカップを掲げた。
「お手柄だな」
彼の独り言に、携帯が答えた。
着信のランプが響く。
彼はきっかり三コールで出た。
電話の向こう側の男がいった。
「三鷹さん、いったいどういうつもりなんですか?」
「は?」
「とぼけないでください。テレビです。立川慎之介はあなたが“処分”したはずでしょう」
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