カミーユがいった。
「わたしは〝あり〟だと思うの」
夕は桜木町駅前のコーヒーチェーンのテラス席で、まちこを待っていた。〝喫茶店〟で一度別れてから二時間、待ち合わせの時間まであと10分だ。まもなく17時。時短勤務のママさんたちがランドマークタワーにつながる空中通路の降り口から、駅に吸い込まれていく。
「兄さんはどう?」と、カミーユ。
「夕の恋人にする? 反対だな。危険すぎる」
「えー? 大丈夫よ」
「ヴォワザンの生まれ変わりなんだぞ? どうして信じられる?」
「あの子自身も含め、誰も信じてないからよ」
「意味が分からんな」と、兄。
カミーユが兄好みのブラックコーヒーをすすって顔をしかめた。
「誰か一人くらいは信じてあげないと。人は人に信じられることで変わるものよ。わたしがそうだったようにね」
カミーユがため息をついてから、コーヒーに砂糖とクリープを鬼のように注いだ。
〝兄〟が「糖分と脂質は控えろ。筋肉に悪い」と、いったが、カミーユは気にせず飲む。
彼女がコップを置いたところで、〝兄〟がいった。
「夕、あの娘に気を許すなよ。〝仲間〟と〝心を許していい相手〟は違うんだからな」
「兄さんはいつもそればっかり」と、カミーユ。「気を許すな。油断するな。誰が敵かわからない。そんなだから夕に本当の友達ができないのよ。このままだと、この子もあたしみたいに孤独な人生を送ることになるわ」
「代償が死だぞ」
「ただ一人でも愛する相手を得られるなら、命をかける価値があるわ」
なんだよ二人とも。夕は少し憤った。まるでぼくに友達がいないみたいじゃないか。
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周囲の客がざわついた。
みな、視線を駅の改札方向に向けている。
夕が首を伸ばすと、一人の女性が見えた。完璧なプロポーションの持ち主だ。小さな頭に、豊満な胸、引き締まった腹。その体をお姫様のようなフリフリのドレスで包んでいる。彼女が一歩足を動かすごとに、裾のレースが華麗に揺れる。とんでもない服装センスだが、目鼻立ちが日本人離れしているので、違和感はあまりない。腰まである長い黒髪が、夕日を浴びて煌めいていた。
お姫様は、まっすぐに彼の前に来ると、向かいの椅子を引いて座った。
「今日はありがとうございます」と頭を下げる。
「まちこさん?」と、夕。
まちこが申し訳なさげに縮こまった。
「わかってるんです。いまの日本でこれはないって。ただ、美的感覚が前の人生を引きずってるせいで、どうしてもこれがいちばん可愛く思えるんです」
「い、いえ、すごく似合ってますよ」
夕の言葉に、まちこが顔を赤らめた。
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なーにが「似合ってます」だ。
慧は二人から十歩ほど離れた席で、ベースターズのキャップを目深にかぶり直した。
体のラインが出ないダボダボした服に、でかいサングラス。ヴィッグも使っているので、知り合いに見られても容易には気づかれないはずだ。
アイスコーヒーをすすりながら、二人の会話を盗み聞きする。
「正直、まちこさんの嗜好がうらやましいです」
「え? ドレスを着たいってことですか? ま、まあ、夕さんのなかには女性の人格がいるようですから、女装は自然な願望かもしれませんね」
「そうじゃなくて。前世から受け継いだ、生まれながらの嗜好があることが羨ましいんです。クラスでも、みな、思春期を迎え、多かれ少なかれ前世の影響を受けて変わっていくのに、ぼくにはそれがない」
「たしかに、一般人でも、わずかに引き継がれた前世が、現世人格と融合して変化を引き起こしますね」
「そう、それが成長の一般的な過程だ。でも、ぼくの前世たちは、ぼくと溶け合わず、個々の人格を保ってるから。ぼくは何も変われない。ぼくはずっと子供のままなんだよ」
「むしろ〝純粋なまま〟というんじゃありませんか? わたしたちが夕さんに感じる殺人欲は、そこから来てるのかもしれませんね。前世にまったく汚されない、完璧な精神的純潔。それが魅力的なのかも」
いや、夕のやつはそれだけじゃない。慧は空になったグラスをすすりながら思った。わたし含め、殺人鬼たちの夕への昂りは異常すぎる。あの〝兄〟は、もっと何かしてる。人間という肉食獣が、研究を重ねて、最高の草食獣であるブランド和牛を作るように、殺人鬼を惹きつけるために、夕を“仕上げて”いる。
視界の端で、まちこが動いた。
一礼して、ハンドバックのなかから小さな包みを取り出す。
夕が顔を硬らせた。
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まちこが頭を下げた。
「今日はありがとうごいます。おかげで、生まれて初めてデートできました」
「まだ来たばかりじゃないですか?」と、夕。
「はい。でも、夕さんが素敵すぎますから。ここまで我慢できただけでも自分を褒めたいくらいなんです。なので、ひとまず今日はこれで」
まちこがハンドバックから小さな包みを取り出し、彼の前に置いた。
「これは?」と、夕。
まちこが顔を赤くした。
「クッキーです。今日のお礼にと思って大急ぎで焼いてきました」
「へ、へえ」
「あ、もちろん毒がご不安かと思いますので、なんでしたら途中で捨てて帰っていただいても」
「まさか!嫌だなんて」
彼は手を伸ばそうとしたが、途中で止まった。
止めたのは〝兄〟だ。
まだ完全に表に出られるわけではないようだが、上腕二頭筋のコントロールを握ろうとしている。
まちこが頷いた。
「置いていってもいいんですよ」
「まさか! 兄さん!」と、夕。
〝兄〟が彼の口を動かした。
「お言葉に甘えろ。今日のところは置いていくんだ」
「ダメよ!」カミーユが割り込んだ。「この子が一生懸命作ったものよ。ちゃんと食べなさい」
手がクッキーに近づく。
「バカか。彼女はヴォワザンなんだぞ?」
また手が止まる。
「違う。この子は〝まちこ〟ちゃんよ」
手が紙袋を掴む。
「二人とも、ちょっと静かにしてよ」
夕は紙袋を開けた。円盤型のクッキーが、一枚一枚丁寧にビニールで包まれている。
まちこは目を伏せていた。
横から差し込んだ夕日が、彼女の影をテーブルの脇に長く伸ばしている。
お姫様の形をした影絵は、手をぎゅっと握りしめていた。
夕は目の前のクッキーを見つめた。
☆☆☆☆☆
夕は改札の外からまちこに手を振った。
まちこは笑顔で手を振り返しながら、ホームへ続くエスカレーターを登って行った。ドレスの裾がひらひらと揺れ、周囲の男性たちが目線で追いかける。
「あなたに惚れたわね」カミーユがいった。
「またそんな」夕は手を下ろした。「彼女がぼくに惹かれたとしても、それはぼくの〝特性〟のせいだよ」
「いいえ、そんなの関係なく好きになったと思うわ。いったでしょう? 彼女は信じていいって。どうよ兄さん?」
〝兄〟は出てこなかった。
「すねちゃって」と、カミーユ。「で、夕、〝もう一人の子〟の相手もしてあげなさいよ。さすがのあなたでもあれは気付いてたでしょ」
夕はうなずいた。
彼女ほど美形だと、ちょっと変装したくらいでは変装にならないのだ。まちこが現れる前までは、彼女が周囲の視線を独占していた。
彼はコーヒーチェーンに戻ると、彼女の向かいの椅子に座った。
「気付いてたんだ」と、慧。
日が沈みかけているのに、彼女はサングラスをかけたままだ。
「検見川さんは自分で思うより目立ってるんだよ」
彼女はキャップを目深にかぶり直した。
「ご忠告どうも」
夕は眉を寄せた。
「なんか機嫌悪い?」
「そんなことない」
「あるよ」
慧が苛立たしげに舌打ちした。
「あんたがまちこを口説いたのが我慢できないだけ。殺人鬼のくせに」
「口説く?」
「いま、わたしたちのチームはうまく回ってるの。邪魔しないでくれる?」
ふいに、〝兄〟が会話に入った。
「回っているだと? そうは思えないな。俺の見たところ、お前らはみな崖っぷちだ。じきに、ミイラ取りがミイラになるぞ。とくにお前はな」
〝兄〟が手を伸ばし、彼女の顔からサングラスを奪って、〝引っ込んだ〟。
慧は食い入るように夕の顔を見つめていた。
西日を受けて、黒く大きな瞳が燃えている。
「ごめん」彼は手の中のサングラスを差し出した。
彼女は優しく微笑むと、左手でその手を掴み、右手の人差し指を彼の眼球めがけて突き出した。
〝兄〟が瞬時に体を統率し、空いた手で指突を受け止めた。
慧が愕然とした表情になった。
〝兄〟がいう。
「己すら御せないやつに〝狩り〟は荷が重い」
「動けたの?」と、夕。
「いまさっきからな。そうでなけりゃ、わざわざ試すか」
慧が手を振り解いて立ち上がった。
「わたしはちゃんとできるわ!」
「いまのざまでか?」
「それは夕が、ふつうじゃないからよ」
「いいや、違うーー」
〝兄〟が言い終わる前に、慧は走り去った。
カミーユが小声でつぶやく。
「怒らせちゃった」
「俺は巡への義理もあるから、一言忠告しただけなんだがな」
「兄さんは、あの年頃の女の子ってものが、まったくわかってないんだから」
夕が深刻な口調でいった。
「それより、彼女、会計を済ませてないんだけど」
☆☆☆☆
どうやって、代金を回収するべきか。
翌朝、彼は頭をひねりながら、教室の扉を開いた。
みなの前でいったり、どこかに呼び出すことは難しい。
彼は慧に振られたことになっているのだ。あのときは、散々ネタにされた。あんなのは二度とごめんだ。
とはいえ、〝兄〟のプロテイン代や、カミーユのスイーツ代に消えていく食費を考えると、五百七十円は捨てがたい。
悩みながら目線で慧を探す。
いない。
まだ登校していないのか。
ところが、彼女は予鈴が鳴っても現れず、そのまま遅刻した。
昼になっても現れない。
クラスメイトがざわつき始めた。仲の良い女子たちがラインを送っても返事がないという。
午後一の授業は担任の中年男性が受け持つ古文だった。
女子の一部が慧のことを問うたところ、担任はハゲかけた頭をかきながら、「あー、親御さんからさっき連絡があった。検見川は体調不良で当面欠席するそうだ」といった。
翌日も、さらにその翌日も慧は登校しなかった。
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