まちこがいった。
「落ち着いて。闇雲に探しても無理だよ」
「なら、どうすればいいのよ」
慧はキョロキョロ目線を動かしながらいった。
街路樹の影で密着している大学生カップル、はしゃぐ男子中学生の群れ。ファミレスから飛び出してくる幼児と追いかける親。パチンコ屋からは、かしましい音楽が鳴り響く。
いない。夕と女がどこにもいない。こんな至近距離で見失うだなんて。
「考えてみよ。まず、あの女性だけど、慧ちゃんがいってたように、わたしたちの“同類”だよ」
「う、うん」
まだ五分ほどしか経っていないとはいえ、〝手の早いやつ〟なら、夕は既にバラされているかもしれない。
まちこが慧の手を握った。
「わたしには、あのひとが彼をどこに連れてったのか分からない。そこのビルの非常階段をのぼったのかもしれないし、ラーメン屋さんに入ったのかも。ゲームセンターかもしれない。それともどこかに走り去ったのか。ただ、まだ近くにいると考えようよ。遠くに逃げられたなら、彼はもう助からないから」
「うん」
「あの二人は近くにいる。ここから見える範囲のどこか。で、慧ちゃんなら、それがわかると思うの」
「なんで?」
「だって、テッド・バンディだもの。少なくともわたしの前世よりはあの女のひとに近いよ。考えてみて、テッドなら、いまここでさらった相手をどこに引っ張り込む?」
冗談じゃない。慧は唇を噛んだ。わたしはたしかに慧であり、テッドでもある。彼らしく考えれば、ヒントを見出せるかもしれない。でも、それはテッドにさらに一歩近づくということだ。
テッドに寄れば寄るほど、慧としてのわたしは薄くなり、テッドに戻っていく。いや、正確には慧とテッドが入り混じった新しい人格になるのだろう。そいつはテッドのように賢く、魅力的で、女の子たちを惹きつけ、殺しまくる。
慧は息を吐いた。
とはいえ、夕を見捨てるわけにもいかない。
☆☆☆☆☆☆
「よく気づいたね」
まちこがささやき声でいった。
当たり前だ。わたしを誰だと思ってる。慧は歯を見せて笑った。視界の中で「作業」に適しているのは、この路地以外にない。周囲の建物の外観から判断して、この奥には死角となる空間がある。まちこにはわからなくとも、このわたしにはわかる。
彼女は青ざめた。
このわたし? わたしは検見川慧、ただの女子高生だ。
二人は汚物まみれの細い路地を慎重に進んでいた。右側の壁の向こうはパチンコ屋だ。店内BGMにあわせてコンクリートが震えている。
先に坪庭のような場所が見えた。雑草が元気よくおいしげっている。
慧は人差し指をあげた。
「わたしだけでいく。わたしがあの女を抑えてる隙に彼をここから引っ張り出して」
「どんな相手かわからないんだよ?」
「大丈夫、いざとなればジュージュツがあるから」これも、テッドの能力ではあるけど。
慧は一呼吸おいて、空き地に駆け込み、立ち尽くした。
四方を壁に囲まれた空間では、夕が陽光に焼かれながらつっ立っていた。
足元にはあの女が倒れている。ぴくりとも動かない。
「え?」慧はつぶやいた。
どうなってるの?
夕が振り向いた。
「検見川さん?」驚いたようにいう。
いつもの彼だ。教室で毎日見かける彼。いつものように特徴がなく。とびぬけて普通で、信じられないほど〝そそる〟。
その彼が近い。
とても近い。
これほどの距離で彼と話すのは初めてだ。
「よかった、無事だったんだ」
慧はこの言葉を英語で発していた。
夕に近づき、その頬に右手を当てる。左手で側頭部を掴み、ひねる。
夕の首が危うい方向に曲がり、止まった。
彼の首の筋肉が盛り上がる。
彼の口が動いた。
出てきたのは、聞いたこともない言語だった。テッドは五カ国語を解すが、そのいずれにも似ていない。
夕の手が彼女の腕を掴み、無造作に投げ飛ばした。慧は女子とはいえ、上背があり、体重は六十キロ近い。その彼女を片腕で、しかも単純な筋力だけで投げた。
彼女は受け身をとったが、勢いを殺しきれず、胸を地面で強打した。肺の中の空気が出て行く。
このわたしが、こんなにあっさり!?
夕がいった。今度は日本語だ。
「今日はいい日だ。一度に二人も釣れるとはな」
彼の全身の筋肉が激しく震えていた。袖から出た二の腕が膨れ上がる。鋼を束ねたような高密度の筋肉だ。肌のあちこちに傷痕のような赤い筋が浮かび上がる。
顔つきも変化している。半笑いだった口元は硬く引き締まり、目元に険しいシワが刻まれた。瞳は奇妙にギラついている。
彼の表情が一瞬緩んだ
いつもの夕の声が出る。
「待って兄さん。この子、同じクラスの検見川さんだよ」
「お前のクラスメイト?」
「う、うん」
夕は、足で彼女を仰向けに転がした。
「なかなかの確率だ。こいつは偶然じゃあないな。俺たちとこの女には〝縁〟がある。過去のどこかで人生が交わったんだろう。思い出せないが俺が始末した〝破滅派〟の一人かもしれんな。二度までも俺に“処理”されるとは因果なことだ」
「待ってよ。じゃあ、検見川さんが殺人鬼だってこと? 間違いじゃないの?」
「間違い? あと一センチ首を捻られていたら、頸椎を砕かれていたのにか?」
なんなの? 夕を見ながら、慧はぶるりと震えた。
一人の人間が、お芝居でもないのに自分と会話している。一言話すたびにめまぐるしく表情が切り替わる。
二重人格だ。慧は思った。転生者ーービルガメスーーのなかには、前世の人格と現世の人格が融合せずに、それぞれ別個の人格として維持される者もいるが、ここまで顕著だなんて。
夕、いや、夕の中の何者かが拳を握りしめた。空手の下段付きのポーズを取る。砕かんとしているのは、慧の顔面だ。
待って、待って、待って。
命乞いをしようにも、呼吸の乱れがおさらまらず声がでない。
「悔い改めるんだな」夕の中の「兄」がいった。「来世でも人を殺すなら、俺がまたお前を殺す」
夕、いや、彼のなかの「兄」が拳を振り下ろした。
☆☆☆☆☆
慧の視界いっぱいに拳が広がっていた。
鼻柱が熱い。骨が砕けたわけではなさそうだが、頬を流れる水っぽい感覚からして盛大に鼻血が出ている。
拳がゆっくり引かれた。
「兄」の声がいう。
「なんといった?」
誰かと会話している。
もちろん、この状況で割り込んでくるのは一人しかいない。
まちこの声がいう。
「だから、慧ちゃんは人を殺したりなんかしません。あなたのことも、そこで倒れている女の人から守ろうとしてたんです」
「ほう? お前たちは“俺たち”と同じというとこか」
「同じ?」と、まちこ。
兄が拳の握りを解き、壁にもたれた。
「まず聞いておこう。お前たち、前世の記憶はあるか? ないなら、この質問は気にするな。頭のおかしな狂人のたわごとよ」
まちこが恐る恐るいった。
「ありますけど」
「ビルガメスという言葉を聞いたことは?」
「わたしたち転生者のことですよね? つまり、転生しても記憶を失わない人」
「そうだ。いまさらだろうが、俺たちビルガメスは、生き死にを繰り返すうち、概して倫理観を失っていく。己が死んでも死なないものだから、命というものを軽んじるようになる。俺の経験からいって、ビルガメスのおよそ半分は、やがて一線を越える。あとは坂道を転がり落ちるがごとくだ。ま、かくいう俺もその一人だがな。ただし、俺にはルールがある。俺が楽しむのは、“堕ちたビルガメス”だけだ」
慧は手をついて体を起こした。
鼻を押さえながらいう。血が止まらないせいで呼吸がしづらい。
「つまり、殺人鬼を狩る殺人鬼ってこと?」
「お前たちもそうなんだろう?」
慧はまちこと目を合わせてからいった。
「いえ、わたしたち、“殺し”まではしないんです」
「はは、俺もだ。こいつも殺したわけじゃない」兄が足元の女を指した「ま、この人生では、二度と目覚めることはないだろうし、万一目覚めても、二度と歩けん。で、何人いるんだ? 仲間だよ。まさか二人ぽっちってことはないだろう」
まちこがいった。
「五人です」
「わかった。連れて行け」
「え?」と慧。
兄が人差し指で自分の胸板を叩いた。
「俺をお前たちの仲間のところに連れて行け。それで俺を襲ったことはチャラにしてやる」
☆☆☆☆☆
中区の「港が見える丘公園」は、横浜屈指の観光スポットの一つだ。山下公園から徒歩二十分、木々に覆われた階段を登りきると、一気に視界が開ける。
眼下の横浜港を交易船やクルーザーがのんびり行き来している。対岸に見えるのは川崎の重工業地帯だ。その向こうに羽田空港から飛び立っていくJALやANAの飛行機。彼方にはスカイツリーらしき棒状の建造物が望める。
慧と〝兄〟の二人は、カップルや観光客でごった返す公園をつっきると、木々に囲まれた喫茶店の前に立った。
かなり古い建物だ。赤茶けたレンガの壁に、瀟洒な装飾のほどこされた窓、三角屋根のてっぺんでは鉄の風見鶏がくるくる回っている。庇からぶら下がった看板には「喫茶」とだけあった。
慧が横目で兄を見た。
彼は、いつもの教室にいる夕そのものなのに、何もかも夕と違っている。筋肉質な外見もそうだが、なにより立ち居振る舞いが自信に満ち溢れている。
本当に連れてきてよかったのかしら。一瞬、不安がよぎった。いや、中には仲間がいる。「兄」の目論見はわからないが、全員でかかれば何とかなるはずだ。
「案内ごくろう」
兄はそういうと、躊躇なくドアを押し上けた。
☆☆☆☆☆
店内は、外観同様古びていたが、椅子もテーブルも徹底的に磨き上げられている。かぐわしい紅茶の香りがたちこめ、窓からは風に揺られるカモメたちが見える。
席数は絞られている。二人がけのテーブル席が四つと、カウンターに向いたスツールが五つだけ。そこに三人が座っていた。
入り口から見て左には、超ミニのスカートにピッタリしたタンクトップを身につけた露出過多の瑠璃、年の頃は二十代半ば。真ん中は赤いランドセルを背負った小学生のユートン、大きなマグカップを両手で掴んでいる。右は蛍光ピンクのジャージに金色の髪をしたヤンキーのマリだった。
三人がいっせいに入り口に顔を向けた。
小学生のユートンが可愛らしい声でいった。
「慧、これはどうしたことだ? まちこは?」
「さっきラインで送った通りだけど。まちこはこの人を襲ったビルガメスの後片付けをしてる。まだ息があったから、“巡さん”に教わった番号に連絡しといた」
「ライン?」三人が顔を見合わせた。
「ちょ、ちょっと。こないだみんなに使い方教えたじゃない!」
「わしは機械の箱はすかん」と、ユートン。
「スマホ、家に忘れた」と、ヤンキーのマリ。
「わたしはちゃんと持ち歩いていますよ。ほら、ちゃんとここに」露出過多の瑠璃がミニスカートの裾を持ち上げて、太ももに結びつけたホルダーからスマホを抜き出した。「あら、慧さんからラインが来ていますね」
慧は額を抑えた。
ユートンがマグカップをカウンターに置き、スツールから床に飛び降りると、背負っていたランドセルをそっと下ろした。
瑠璃と愛も立ち上がる。
急に空気が張り詰めた。
ユートンがいう。
「で、こやつはなんだ?」
“兄”が指を鳴らした。横目で慧を見る。
「転生回数は少ないようだが、演技力はなかなかのものだな。結局、“敵”だったわけか。だが、たかだか四人で足りると思ったのは大きな間違いだ」
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