俺は死にかけていた。
俺は地面に仰向けに横たわっていた。首筋にざらついた土の感触がある。俺の腰の上には、対戦相手であるオルゲトリックスがのしかかっていた。
オルゲトリックスはガリア出身の拳闘士だ。体格は現代の数値に置き換えれば、百九十センチ、百七十キロほど。白い肌全体に青い民族文様の入れ墨を施し、真っ赤な髪を振り乱し、牛をも殴り殺すといわれる巨拳を打ち下ろす。戦歴は九十五戦九十五勝。
対する俺はまだ子供だった。体格は百十センチ、二十キロ。必死に突き出した手はか細く、あまりに頼りない。オルゲトリックスの拳は俺の手など存在しないかのように突き進み、俺の顔面を容赦なく砕いた。
オルゲトリックス、オルゲトリックス、と観客の声援が地鳴りのように響く。客たちが足を踏み鳴らすたびに、実際に地面が揺れていた。
俺たちがいるのはイベリア属州の隅にある小さな拳闘場だった。地面を円形に掘り下げられて作られた簡素なもので、直径は十メートルもない。観客は有力な商人や政治家、その奥方たち。シルクロードからやってきた絹織物のトーガをまとい、穴のふちに組まれた櫓の上から、闘士たちの殺し合いを楽しむ。
俺の口の中で折れた歯がからからと鳴った。 鼻は潰れて灼熱の痛みを生み出すだけの団子になり、右目はもう機能していない。
「助けて」
俺はか細い声でいった。
オルゲトリックスは笑顔で拳を振り下ろし続ける。
俺の人生はいったいなんだったのか。
ごく短い走馬灯が頭をよぎる。
俺の母は俺と同じ奴隷だった。同じ奴隷の父親と恋に落ち、俺が生まれた。
奴隷の子は自動的に奴隷になる。
拳奴だった父は、俺が四歳の時、俺と母の自由をかけて、このオルゲトリックスと戦った。当時、オルゲトリックスはすでに怪物の名をほしいままにしていた。素手だというのに、剣闘士ですら倒してのけるのだ。父とオルゲトリックスの掛け率は一対百だった。
父は一方的に殴られ続け、試合から四日後に死んだ。
いまわのきわの言葉は「自由を手にしろ」だった。俺は父の体にすがり、涙と鼻水まみれになりながら頷いた。示された道はただ一つ、拳闘士として勝ち続け、母と自分自身を買い戻すことだけだった。
俺はその日から、訓練所の教官が目を見張るほどに訓練にはげみ、三日後、オルゲトリックスと闘うことになった。
そう、三日後だ。
俺の主人である興行主のエトルリア人、ギレイトスは、父があまりにも不甲斐なく敗れたことに怒り心頭だった。負けるにせよ負け方というものがある。父はただの一撃すらオルゲトリックスにいれることができなかった。一応はギレイトスの看板闘士だったというのに、初めの一撃を顎に喰らって脳を揺らされ、あとはなされるがままだったのだ。ギレイトスの面目は丸つぶれである。
彼は腹いせに俺の母を娼館に売り飛ばし、俺をオルゲトリックスの前に立たせた。
誰も俺が勝てるなどとは思っていない。
賭けは俺がどれくらいの時間生きていられるかだった。
かくして、俺は三十発ほど殴られて、三十一発目で頭蓋を砕かれた死んだ。
試合開始から五十秒も経っていなかったろう。
灰色の脳髄が飛び出し、土埃りまみれるのを、俺は残った左目で数秒間見つめていた。
俺の魂を天に登って自由を得たかに思われたが、たちまちこの世に戻ってきた。
幸か不幸か、俺はビルガメスだったのだ。
俺が宿った肉体は、またしても奴隷の子だった。
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
ほかのビルガメスたちは、一様に〝縁〟が素晴らしいものだという。縁が存在同士を引きつけるおかげで、いまは亡き前世の妻に会える、娘に会える。友に会える。恩人に会える。
だが、俺にとって縁は悪夢だった。
俺の二度目の人生は、一度目にも増して散々だった。
前世の記憶が戻ったのは十四歳のころだ。
この二度目の俺も拳奴の息子だった。
名はカリオ。
こいつは上背こそあるものの、色白でひょろっちく、瞳には覇気がなかった。闘争心というものが欠けているのだ。訓練場の隅で傷ついた小鳥の世話をするほどの軟弱者で、四歳で死んだ前世の方がましだったかもしれない。本当に俺と同じ存在なのか疑いたくなる。
カリオが十四まで生きていられたのは、当代最強と謳われる父親の血が目覚めるのを、奴隷主が期待していたからだ。
じっさい、父親である拳奴には十五人の子がいたが、カリオと同い年の二人は、見事なまでに父親のコピーだった。分厚い胸板に太い腕、ライオンのように逆立つ赤い髪。彼らはすでに大人相手の拳闘でそれぞれ三度の勝利をあげていた。
その夏の夜、カリオら十五人の兄弟は、訓練場の食堂に集められた。
室内は蒸し暑い。
ろうそくの炎が揺らめき、獣脂の匂いが漂う。窓の外では虫がウンウン鳴いている。
カリオの父親、無敗闘士オルゲトリックスは食堂中央の馬鹿でかいテーブルの上で娼婦を抱いていた。同時に三人相手にしている。金髪のガリア女、黒髪に浅黒い肌のエジプト女、黒い髪の白い肌のアジア女だ。三人は幾度も精をそそがれ、くたびれ切っていた。
オルゲトリックスがあぐらをかき、エジプト女を上にのせた。
「こいつらが、俺の息子なのか?」
奴隷主のギレイトスが頷いた。ギレイトスは俺が転生するまでの間に所有する拳闘団の規模拡大に成功し、数年前には解放奴隷となったオルゲトリックスを専属闘士として雇い入れることに成功していた。
「そう!みな、君の息子だよ」と、ギレイトス。
「期待できそうもないな」
「そんなことはない。みなたいへんな才能を秘めているよ。なにせ、君の息子なんだ。競りに出せば、誰もにたいへんな値がつくだろう」
ギレイトスはオルゲトリックスに敬語を使っていた。
オルゲトリックスはいまやローマ本国一とも呼ばれるギレイトス拳闘団のスター選手であり、その名声と栄誉はギレイトス個人をはるかに上回っている。
オルゲトリックスが低い声でいった。
「それだ。こんな雑魚どもが俺の息子として売るだと? ギレイトス、きさま、俺の名を汚す気か?」
「いや、君の名誉を傷つけようなんて気はないよ。ただ、商売上のことだから」
「ふん。商売か」
オルゲトリックスがテーブルから裸の巨体を踊らせた。
音もなく着地する。
なんという大きな男なのか。
息子たちのうち、もっとも体格の良い次兄よりさらに頭ひとつ大きい。
オルゲトリックスは壁際に立つ息子たちの前を歩き始めた。一人一人の息子を眺め、やがてカリオの前で止まった。
オルゲトリックスがカリオの頭に手を置いた。
「だがな、ギレイトスよ。俺の息子としてこいつらを売るというなら、質は担保しなければな。見込みのない苗は早めに処分すべきだ」
オルゲトリックスは片手でカリオの頭をひねった。
嫌な音を立てて頸椎が砕けた。
カリオがその場に崩れた瞬間、俺の前世の記憶が解放された。俺はカリオでありながら、オルゲトリックスに殺された少年でもあった。そして、いままさにもう一度殺された。
首から下がぴくりとも動かない。
心臓がゆっくりと鼓動を弱め、肺は膨れることをやめた。
苦痛はない。
何も感じないのだ。ただ、頭が痛かった。過去に感じたことのない苦痛の炎が、頭の奥で肉を焦がしているようだった。俺の脳髄はすべて焼け焦げ、炭となり、意識は消失した。
ふたたびこの世に戻ってきた俺は、またしてもオルゲトリックスの息子だった。
もう驚きはしない。
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