悠は答えなかった。暗がりの中、体の輪郭だけが浮かんでいる。
窓の外から、車の走行音が微かに聞こえる。近くを走る国道一号からだ。横浜港で荷を受けたトラックが東名を目指しているのだろう。
悠の口元が動いた。流暢なアメリカ英語でいう。
「あんた、いったい何様なの?」
キングスイングリッシュで返す。
「警官だ。犯罪を止めに来た」
「ふざけるな。あたしがこいつに殺された時は、なにもしてくれなかったくせに! こいつのことは守ろうっていうの!?」
「いや、守りたいのは君だ」
「はあ?」
彼は壁に刺さった包丁を抜いた。
「君は前世で本当に辛い目にあった。なのに、現世でまで重荷を負うことはない。たとえ事故死として処理されたとしても、殺人というものは人生にのしかかってくる」
「だからって、見逃せるわけない! これは神様がくれたチャンスなのよ。わたしをわざとバンディの血縁者にしてくれた。縁をつないでくれた!これは復讐しろっていう啓示なの!」
その点は否定しづらいな。彼は思った。前世でつながりのあった人間は現世でも引き合う。そういう意味では、神のみわざといえる。
「わたしは絶対にバンディを許さない!」
「でも、きみだって葛藤してたろう。占い師の瑠璃がそういってたよ。殺すか殺さないかの間で揺れていると」
当初、彼は、瑠璃の言葉が慧を指しているものと思い込んでいた。
堪えている。
我慢の限界。
現世での思い出が歯止めになってる。
なんのことはない、トランス状態の瑠璃ははじめから悠のことだけを話していたのだ。
☆☆☆
悠の肩が震える。
「当たり前だよ。だって、慧お姉ちゃんだよ。あたし、お姉ちゃんのことが大好きだもん! 殺したいわけないじゃない! でも、バンディなの。絶対に、絶対に、絶対に許しちゃだめなやつなんだよ!」
そこまでの思いなのか。
慧がベッドの上でつっぷした。
呻くような声でいう。
「悠、お姉ちゃんも悠のこと好きだよ。ごめんね。ほんとにごめんね」
真に迫った言葉だ。だが、バンディはとてつもなく頭の良い男だった。演技なのか、本心なのか、巡には判別できなかった。
悠がいう。
「ありがとう、おねーちゃん」
「うん、うん」と慧。
やるしかないな。
巡は決断した。悠の手を掴み、包丁を握らせる。
彼女の震える手に、自分の手を添える。
彼は片手で慧の頭を掴うと、上半身を引きおこし、パジャマ代わりのTシャツの上に、悠が握る刃を導いた。刃先が沈みこんでいく。パジャマの布地が赤く染まり、鉄臭い匂いが漂う。彼が包丁を動かすと、傷口が広がり、中からピンク色の臓物がむるりと顔を出した。
悠が苦悩とも喜びともつかない声を上げた。
☆☆☆☆☆
「やめて! やだやだ! やだ!」
悠が日本語で叫んだ。
包丁を引き抜き、慧の傷口を手で押さえる。小さな指の間から、内臓がこぼれだし、シーツの上に落ちた。
慧の顔は真っ白だった。唇を血が出るほどに噛み、小刻みに震えている。
悠がいった。
「呼んで! お医者さん呼んで!」
次の瞬間、彼女の顔が憎しみに歪んだ。英語でわめく。
「殺す! 絶対に殺す!」
小さな手を傷口につっこむと、小腸のようなものを引きずり出す。血が吹き出し、ベッド、壁、悠、巡に降り注ぐ。慧の体が激しく痙攣する。口から血の塊が落ちる。
「やだ! やだーーーー!」
悠が絶叫し、意識を失った。血まみれのシーツに倒れこむ。
病室内が静まり返った。
慧の口から出る、ゴボゴボという音だけが不気味に響いている。窓の外からは、相変わらずダンプやトラックの走行音が微かに聞こえていた。
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