乃木山誠は女性の遺体から剥ぎ取った下着を身につけると、姿見の前に立った。
微笑んでみる。
とてもいい。
身長が少々高いが、美女で通るだろう。
前世に続いて、現世でも男に生まれてしまったが、今回の身体は比較的満足できるものだ。母親がロシア系の血を引くおかげで、顔は適度に西洋的だし、身体は細く、やわらかく、手足は長い。前世の無駄に筋肉質で骨ばった体とは大違いだ。
ポーズをとっていると、二の腕に微かな痛みが走った。見るとミミズ腫れができていた。
足元で動かない女を見下ろす。
なんといったっけ。ゆり? ゆかり? 横浜駅西口のバーでひっかけた女だ。美しく、朗らかで自信満々、これまでの恋人は医者や商社マン、ベンチャーの社長などのエリート揃い。誰もが彼女を女神のように扱う。女友達が彼女を撮影した動画を勝手にネットにあげたさいは、あっという間に数十万再生に達したとうそぶいていた。スマホで見せてもらった動画の中の彼女は「やめてよお」といいながらまんざらでもなさそうだった。美に対する努力は惜しまず、ジム通いは欠かさない。引き締まった身体はアスリート並みだ。じっさい、先月の市民マラソンでも入賞したらしい。おかげで、コンバットナイフを脳天に刺すまで苦労した。
彼はため息をつきながら、二の腕の引っかき傷をなでた。
女の化粧箱を探り、コンシーラーを取り出して、傷を少しずつ隠していく。
“まったく、なんてことだ”。
ふいに、彼はそれまでの英語ではなく日本語で考えた。
“ぼくはまた人を殺した”。
湧き上がった罪悪感が、胸を締め付ける。
彼は顔をしかめた。
英語で一通り毒づく。
彼は右手が勝手に動いていることに気づいた。
口紅で姿見に字を書いている。
手は、日本語で「だれかぼくをとめて」と、綴った。
彼は左手で別の口紅を持ち、英語で「ボクは誰にも止められない」と書いた。
いましばらくの我慢だ。そうすれば、〝ぼく〟は、〝ボク〟のなかに飲み込まれ、ときたま感じる僅かな感傷に過ぎなくなる。
また日本語の思考が浮かんだ。
“ぼくはそんなのごめんだ!”
部屋の隅のテレビのなかで、NHKの女性アナウンサーがニュース原稿を読み始めた。トップに来たのは、殺害現場に、口紅や化粧ペンで「とめてくれ」と書き残す連続殺人鬼の話だ。関東近郊ですでに四人が殺害されている。凶器はいつも刃物、被害者はいつも若い女性。1970年代にシカゴで暴れ回った連続殺人鬼になぞらえて「リップスティック・キラー」と称されている。
コメンテーターの犯罪学者が、白髪頭をかきながら「犯人は二重人格ですね」と断定した。
彼は鏡の中の自分を見つめた。
果たして、これは二重人格というのだろうか。〝ボク〟は前前世から連綿と続いてきた人格であり、〝ぼく〟は現世で生まれた人格だ。前回同様、〝ボク〟は思春期に目覚め、現世人格と混ざり合っていく。
また右手が動き始めた。
「誰かぼくを殺して!」と綴る。
彼は笑った。
誰にも殺すことなんてできない。
ボクは死んでも生まれ変わる。いや、正確には“死んで生まれ変わった先でも、人格を保持できる”。
彼は鼻歌を歌いながらクローゼットを開いた。
うん、やはりこの女はいい趣味をしている。
手前にあったイヴサンローランのワンピースを胸元に引き寄せながら、横たわる遺体に向かって微笑んだ。
英語で話しかける。
「どう? 君と同じくらい似合うでしょう?」
☆☆☆☆
「ねえ、どうしたら前世の記憶があるのに、英語で赤点を取れるの? 前世はテッド・バンディでしょう? 彼はアメリカ人だったと思うんだけど」
横浜駅前の雑踏の中、御厨まちこの言葉に、検見川慧はすらりとした手を振った。
「あいつの記憶には頼りたくないの」
まちこがビン底メガネをずらして、彼女を見つめた。
「記憶を押さえ込むことはできないんだよ? 彼はあなたなんだから。自分の人生を忘れることなんてできっこない」
「それは、わかってるけどさあ」
制服姿の二人が歩いているのは、横浜駅前の雑踏だ。夏の盛り、街路樹にしがみついたアブラゼミは狂ったように鳴き喚き、雑居ビルと雑居ビルの隙間からはエアコンの室外機が吐き出した熱気が漏れ出してくる。道ゆく人々はわずかな涼を求めて建物の影を辿っていた。
二人を追い越した女子中学生らしき三人組が、引力に引かれるようにそろって首を回し、二人を見つめた。
慧はアパレルショップのショーウィンドウに写る自分たちの姿を横目で見た。
慧はモデル体型で、シュっとしている。シュっとしすぎて公立校の夏服の胸元までさみしいのが玉に瑕だが、顔は並みのアイドル以上だ。後頭部でまとめた髪が軽やかに揺れている。
隣のまちこはグラビア体型だ。胸や尻はボリューム感があり、お嬢様私立の制服がはちきれそうだ。極厚レンズのメガネをかけているが、それが逆に造形の良さを際立たせている。
女子中学生たちは彼女らを見ながらキャアキャアいいはじめた。慧はそのなかの一人に目を止めた。長い黒髪をセンターでわけている。顔立ちは地味だが、肌は綺麗だし、真っ白な歯はじつに魅力的だ。
彼女が唾を飲んだところで、まちこが指で彼女の肩をたたいた。
「欲が漏れてるよ」
慧はうなだれた。
またやってしまった。
「わたし、ほんとは男が好きなのに」
まちこが首を横に振った。
「慧ちゃんのそういうところ、よくないと思う。過去を乗り越えるには、いまの自分を受け入れないと。慧ちゃんが好きなのは女の子だよ。もっと正確にいうと、“殺したくなる”のは女の子」
「そうじゃないときもあるわよ。じっさい、いまはアイツが気になってるんだから」
慧はそういうと、十五メートルほど先を歩く少年を指した。
湯河原夕、慧と同じクラスの男子生徒だ。
最新型のアイフォンを耳に押し当て、「兄さん、来るなら早くきてよ」と大きな声で話している。
まちこがメガネをあげて、夕を見つめた。彼女のメガネは伊達だ。裸眼視力は二以上ある。
「気になる? あの人のどんなところが素敵だと思うの?」
「それは」
慧は口ごもった。
夕は世間的な意味でのイケメンではない。
目は一重、鼻筋はかろうじて通っているといえる程度。癖のある黒髪は無難なツーブロックにカットされている。中肉中背で運動神経は並。先日の期末考査の学年順位は二百十三人中の百五十二番。ほどほどに社交的で、ほどほどにオタク気質。持ち歩いている本は、ブックカバーをかけてあるが、中高生に大人気のライトノベルだ。制服は少しだけ崩している。女子からの人気は中の中ほど。いまはまだ恋人がいないが、運が良ければ、高校を卒業するまでには一人くらいできるかもしれない。
その程度だ。
「たしかに、夕くんは地味だし、前はあんまり視界に入ってなかったよ。でも、いまは彼が気になるの! 彼の全部が素敵に見えるの。恋ってそういうものでしょ?」
そう、わたしは彼に恋している。慧は思った。登校するたびに彼の顔を探してしまうし、彼の一挙手一投足から目が離せない。彼の言葉は一言漏らさず聞きたいし、彼と二人きりになって、その首を締めたらさぞかし楽しいだろう。
背筋が泡立った。
なに? 違う。わたしは彼を殺したいだなんて思ってない!
まちこが頷いた。
「慧ちゃんのいうこと、わからなくはないかも。たしかに、あのコ、なんだか素敵だものね」
「ちょ、ちょっと」
「冗談だよ。でも、真面目な話、たしかに彼はモテるみたいだね。慧ちゃんがいってた〝お仲間〟が来たよ」
まちこが首を動かした。
マックから出てきた女性が、夕の十メートルほど後方についた。高身長の慧より高く、ほっそりした首筋や七分丈のズボンからのぞく足は、真夏とは思えないほど白い。シカゴカブスのキャップを目深に被り、人混みを縫って少しずつ夕に近づいていく。
慧は拳を握りしめた。指がポキポキと音を立てる。
女性の周囲には奇妙な緊張感が漂っていた。だが、道行く人々は誰も気づいていない。
慧はテレビで見たサバンナの一幕を思い出した。飢えたメスライオンが涎を垂らしながら、シマウマの群れに近づいていく。シマウマたちはのんびりと草を食んでいる。ライオンと視聴者は緊張の極地にあるが、シマウマたちは草を食み続ける。
女が夕に近づいていく。
慧は唇を噛んだ。
夕はあたしの獲物なのに。
まちこがいった。
「骨は鳴らしちゃダメだよ」
「え? なに?」
「だから、指の骨は鳴らしちゃダメなの。慧ちゃんは女子としての生は初めてだけど、わたしは三回目だから、気をつけるべきこともよくわかるの。骨を鳴らすと、関節が太くなっちゃうんだよ」
「でも、鳴らすと、こう気合が入るというか」
「ダメ。前世が男性だから自然とボーイッシュになるんだろうけど、いまはもう女の子なんだから」
「へえ? 男らしさ、女らしさって前世で決まるの?」
「ある程度は」まちこが道ゆく人々に顔を向けた。「わたしたち〝ビルガメス〟以外の人たちも前世の記憶を、ほんの少しは現世に持ってこれるのよ。よく聞くでしょう?初めて訪れた場所のはずなのに、以前にも来たことがあるような気がする、とか。初対面のはずなのに前々からの友達のように感じる、とか。あれは、前世でそうした場所や人とつながりがあったからなんだよ。前世の記憶はみんなのなかにあるの。だから、前世が女性だった人は現世でも女性らしく、男性だった人は男性らしくなるの」
「はー」
「この世のすべての人は、多かれ少なかれ前世の影響を受けてるんだよ」
なるほど。慧は前を行く夕を見ようと首を伸ばした。彼の前世はどうだったのだろう。いまと同じように平凡を煮詰めたようなタイプだったのか。
慧は青ざめた。
いない。
ほんのいまほど前で歩いていたはずの夕が消えている。
そして、彼の後ろについていた女も。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!