巡は病院の屋上でパイプをふかしていた。
東の空が白み始めている。
海からの生暖かい潮風が肌を撫でた。気の早いカモメが一羽、上空をのんびり漂っていた。
「悠はどうなったんですか?」
横に立つ野々市慧がいった。
腹部に手を当てている。巡と悠が突き刺した包丁は、まち子が用意したホルモンと血袋を突き破り、彼女の皮膚まで届いた。じっさいの苦痛があれほどの演技を可能にしたのか、それとも元々そういう才能があるのか。
巡は紫煙を風に流した。煙はまだ夜の領域に消えていった。
「三十分ほど前に目を覚ましたよ。君のおばさんの話じゃ、語彙が極端に少なくなっていたそうだ。単に一時的なショック性退行を起こしているとも見えるが、おそらく、前世の記憶が消失したんだろう。そのために知能の程度が七歳児本来のものになったんだ。宗教的な観点からいえば、“憑り付いていた悪霊が思いを遂げて成仏した”ってところか」
彼女の顔が明るくなる。
「じゃあーー」
巡は小さく首を振った。
「とはいえ、生きている君と顔を合わせれば、また前世のやつが戻ってこないとも限らない。二度と会わないのがベストだ。申し訳ないが、おばさんには引っ越しを進言させてもらった。旦那さんがシンガポールに単身赴任中ということだったから、ぜひ、そこに行くべきだと。おそらく、姪御さんの認識では、さっきの騒動は全部夢だ。夏の夜の悪夢。従姉妹のおねえちゃんは、もちろん生きてるが、死んだような気もする。そういう曖昧なところがいいのさ」
慧が嬉しそうに頷いた。
「悠が前世に囚われなくなったなら、それでいいんです。自分のじゃない過去に苦しむのは、わたし一人で十分だもん」
彼女は屋上の柵に手をかけると、ひらりと乗り越えた。巡と向き合うようにして、十センチほどのへりに降り立つ。スリッパのかかとが宙にはみ出している。
「やめたほうがいい」と巡。
彼女の手は、彼の手から五センチほど隣で鉄柵をつかんでいる。
「ううん。わたしはもういいんです。三鷹さん、ほんとにありがとう。あの占いの人がいった通りだった。あなたのおかげで、悠にとってはこれ以上ないほどの結果になりました。あとはわたしが自分で蹴りをつけるだけ。昨日から、そう決めていたんです」
「ケリ? 」
慧が下をのぞいた。この市民病院は七階建てだ。例え、下が草むらだろうが、落ちれば頭蓋は砕け、内臓はトマトのようにつぶれるだろう。
彼女がいった。
「あなたもいってましたよね。悠はわたしを殺したがったけど、わたしはあの子がそうするずっとずっと前から、あの子を殺したかったの。それに悠だけじゃない。ほかの人にも欲望を感じるんです。殺したいっていう強烈な飢餓感。なんとか我慢してるけど、いつか衝動を抑えられなくなるときがくる。わたしは水を飲まずに砂漠を旅してる。でも、周りにはいくつもオアシスがある。飲めば楽になる。でも、堪える。そんな旅をいつまで続けられるか。きっといつか、負ける時がくる。だから、そうなる前に死ぬべきなんです。いままで先延ばしにしてきたけど、ケジメをつける日が来たんです」
手すりをつかむ指が力を緩める。
「それなら、なおのことやめたほうがいい。まさかと思うが、死ねば、その呪われた魂が、清らかな善の魂に変わると信じてるんじゃないだろうね」
「え?」手すりから離れかけていた指に力が入った。
「いっておくが、死んで転生したとしても、君はまた殺しの欲望に取り憑かれる。断言しよう。自分自身から逃げることなど、未来永劫できない。踏みとどまって己の因果と戦うんだ。自分の中の欲望をコントロールするんだ」
「そんなこと、できるわけないじゃない! 殺したいって気持ちを抑えるのが、どれほどたいへんか分かる? どんな拷問だって霞むくらいの苦しみなのよ」
「わかるさ」彼は自身を指差した。「わたしも殺人鬼だったのだから」
☆☆☆☆
慧が切れ長の目を細めた。浜風に後頭部でくくった髪が揺れる。
「わたしはふつうの女子高生じゃないんですよ。そんな嘘が通じると思います? 警察官はもれなく前世調査を受けるってことくらい知ってます。あなたの前世が殺人鬼だなんてありえない」
巡は頷いた。
「その通りだ。わたしの前世はイギリスの警官だよ。だが、前前世は歴史に残るほどの悪魔だったのさ」
彼は自分の心を縛る鎖を、ほんの少しだけ緩めた。
夜の闇が心地よくなる。頭上を待っていたカモメが急にバランスを崩し、数メートル落下してあわてて羽をばたつかせた。
目の前の少女をただ見つめた。なんの邪気もない。虎が兎を観察するように眺めた。
ショートパンツから健康的に伸びた脚、ほどよく引き締まった腹部、ささやかで柔らかそうな胸。意志の強さを感じさせる顔立ち。そのなかには多少、不健康な魂が感じられる。
いつしか、彼の思考言語は日本語からラテン語になっていた。
狩りのために道具を調達せねばならない。素手でもいいが、ナイフ、滑車、ハンマー、ペンチ。それに、水銀、硫酸、針、硫黄ーー。
タバコの苦味が彼を現実に引き戻した。
彼は目をしばたかせた。
少しドアを開けただけだったのに、あやうく欲望の海にどっぷり浸かるところだった。
嫌になる程まずいタバコは、こういうとき、本当に役に立つ。彼は意識を集中させるべく、ひときわ深く煙を吸い込んだ。
慧は彼と距離をとろうと目一杯腕を伸ばし、手すりにぶらさがらんばかりだった。
彼はいった。
「信じてもらえたかな?」
彼女が頷いた。
「あなたが、わたしの同類だってことはわかりました」
「そうだ。わたしは君と同じ殺人鬼だ。ただし、きみよりもずっとうまく自分をコントロールできる」
「さっきの感じだと、とてもそうは思えないけど」彼女がつぶやくようにいう。
「まあ、自分を出すのがひさしぶりだったからね。ともかく、前世も含めれば、かれこれ六十年ほど人を殺さずに生きている」
彼女が肘を曲げ、両手でしっかりと手すりをつかんだ。背後の雲が白く輝いている。夜明けも近い。遠く、横浜湾を行き来する船の汽笛が聞こえた。
「どうやったら、そんなことができるんです?」
彼は自信満々に微笑んだ。
ポケット灰皿を取り出し、パイプの中の燃えかすをうつす。
「マナーだよ。マナーが精神の調和をもたらし、人格を作るんだ」
☆☆☆☆
「それで、その姪っこさんはどうなったんですか?」
まち子が網の上のモツをトングでひっくり返した。
炭火でほどよく焼け、脂がしたたっている。ソースに付けると、小さくジュウと音がした。
彼とまち子、それに瑠璃がいるのは、彼の家から程近い総合公園のキャンプスペースだった。炎天下だが、そこここの木陰に家族連れが陣取り、バーベキューに興じていた。
彼は、トングでモツを追加した。
病院で慧の重傷を演出するためにつかった肉の余りだ。相鉄線沿いでも評判の精肉店のモツとあって、味、歯ごたえともに最高だった。
「いまごろ、シンガポール行きの飛行機のなかだろう。病室に仕掛けておいたカメラの映像を見せたうえで、長い付き合いのビルガメスの医者にいわせたのさ。『娘さんはストレス障害を起こしかけています。至急、家族いっしょに暮らすようにされたほうがいい!』とね」
瑠璃がモツを口に運び、ビールをあおった。肉感的な唇にあわがつく。
「くわー、たまらないわあ。しかし、ずいぶんリスキーな真似しましたねえ。母親が納得しなかったら、どうするつもりだったんですう?」
「納得するさ。自分の娘が襲い掛かったのは、可愛がっている妹なんだ」
「あれえ? じゃあ、当のテッド・バンディはお姉さんの自宅で一人暮らしするってこと? それ、やばぁくない? あのバンディでしょう?」
巡は眉をひそめた。
「そういう言い草は好きじゃないな。因果な前世だったからといって、現世でも犯罪に走るとは限らない。野々市慧はいま悩んでるんだ。わたしにできるのは、彼女が勇気ある決断をするよう祈ることだけだよ。人は過去に負けない。人は変われるということを信じ、新しい道を踏み出して欲しいね」
「え? その口ぶりだと監視つけてないんですか?」と、まち子。
「大丈夫。彼女は逃げないさ。わたしには分かる」
「よっ、さすがスコットランドヤードの伝説的刑事!」瑠璃が茶化した。
「どうも」彼はパイプをふかした。
いやになるほど暑い。出かけるときはスーツというのが紳士の嗜みだが、今日ばかりはTシャツ一枚の人間が羨ましかった。
「でも、刑事さん、ちょっと自信過剰じゃありませんこと? あそこの木の影にいるコ。こっちをすっごい睨んでるますよぉ~」
瑠璃がにやつきながらいった。
彼が首をまわすと、阿佐ヶ谷玲子と思しき影が遠ざかっていくところだった。
失敗したな。彼は頭をかいた。疲れているとはいえ、もっと自宅から離れた場所をセッティングするべきだった。
「彼女は恋人じゃない。隣に住んでるただのOLだよ」
「へえ? とてもそうは思えない感じの目つきでしたけどぉ。でも、いいじゃないですかあ。かわいいコだったし。巡るさんはいまフリーなんでしょう?」
「いや、彼女とはいまの状態がいちばんいいんだ」
「ふーん。前世からのご縁ってとこなのかしらぁ」
彼は思わず瑠璃の顔を見た。
瑠璃がモツをつまんだ。
「しかし、これ、ほんとに〝イギリス式バーベキュー〟なんですかぁ? つけ汁がソースってだけで、焼肉みたいな気がするんだけど」
彼が肩をすくめたとき、懐の携帯がなった。
とりだすと、メール通知が一件あった。
発信者は野々市慧。
用件は短く、一言「明日の午後からバイトに出ます。いろいろ教えてください」とあった。
彼は満足げに携帯を閉じた。
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