サラリーマンは空中で体勢を整えると、高架から張り出した整備補道に着地し、完璧なフォームで駆けた。
慧も倣う。
着地の瞬間、衝撃が足にかかった。体が前のめりになり、コンクリートの足場が顔に向かってくる。倒れ込む寸前にもう片方の足を出し、必死に身体を引き起こす。右足、左足、右足、左足。彼女は壊れたブリキ人形のようにドタバタと二十メートルほど走り、転んだ。受け身をとったものの、膝を痛烈に打ち付けた。
痛みをこらえて起きる。顔をあげると、前方のサラリーマンは平然と直立し、心配そうに腕時計をなでていた。
「傷がついてしまいました。彼にもらったものだったのに」
「なに?」
「この腕時計のもとの持ち主、菅沼憲政さんのことですよ。せっかく彼のお時間をいただいたのに、とんだ不始末です」
慧は少しの沈黙の後いった。
「ああ、殺したわけね」
「適切な表現ではありません。人は死ねば転生します。彼はいまごろ次の人生を楽しんでいますよ。わたしは彼の時間をほんの少しいただいただけです」
「ビルガメスでない普通の人間は、転生時に記憶の継続を期待できないのよ。彼らにとっては一度の生がすべて。ほんの少しいただいた? 全部奪ったの間違いじゃない?」
サラリーマンがため息をついた。
「さきほどもいいましたが、わたしは急いでいるんです。禅問答をしている時間はありません。もう失礼してもいいですかね?」
慧は両手を突き出すと、腰を落とした。
「逃すと思う?」
「柔道ですか。古風ですねえ」
サラリーマンは通勤鞄に手を突っ込むと、プラスチックの銃のようなものを取り出した。
「は?」と、慧。
銃は白く、銃口は四角い構造物で蓋をされている。
サラリーマンは躊躇なく引き金を絞った。
蓋が吹き飛び、中からコード付きの電極が飛び出した。
電極は彼女の胸元に突き刺さった。
瞬間、灼熱感が胸元から全身に広がった。身体の神経そのものが燃えているかのようだ。
百万の針が彼女を突き刺している。
足が勝手に折れ曲がり、彼女はその場に崩れ落ちた。
身体中を駆け巡る激烈な痛みに、胎児のような防御姿勢を取ることしかできない。
数秒後、サラリーマンが引き金から指を離した。
「まだ生きてますよね?」
慧は「な、なんななな」と、呟いた。舌が動かない。
サラリーマンが笑った。
「あなた、テーザー銃を知らないんですか? スタンガンを飛び道具にしたものですよ。電気ショックで対象を行動不能にするのです」
バンディの時代にはそんなものなかった。
「それではさよならです。遺体は、そうですね。線路の上に置いておきましょうか。すぐに後続車がひいてくれますよ」
サラリーマンは慧に一歩近づき、ふいに横浜駅の方角に目線を向けた。
慧がどうにか顔を動かすと、夕の姿が見えた。
高架の上をこちらに向かって全力疾走している。
その後ろを相模鉄道の職員や警察官が追いかけていた。
夕が二人に手を振り、笑顔で「おーい!」と叫んだ。
警官の一人が慧を指し、「おい!あそこにもいるぞ!」とわめく。
は? 慧は目をむいた。夕のやつ、いったいなにしてるの?
背後でコツリと音がした。
あわてて振り向くと、サラリーマンの姿は消えていた。
慧はよろめきながらたちあがった。高架上に隠れる場所はない。
下をのぞき込む。道路までは十メートルはある。
飛び降りたっていうの? 三階ぐらいの高さがあるっていうのに?
「おまたぜ!」
夕が激しく息を切らせながら駆け寄ってきた。全身汗まみれでワイシャツが肌に張り付き、引き締まった体が露わになっていた。
「だ、だ、だいじょうぶ?」と、夕。
「わたしは大丈夫だけど。なんなの? 君、怪物だなんだっていってたじゃない。その筋肉は飾り? なんでそんなにドロドロなのよ」
慧は思わず笑ってしまった。殺人鬼と戦っていたわたしより、よほど消耗してる。なんなのほんと。
「さ、さっきもいったけど、に、兄さんは、今日は出てこられないんだ。ぼくが身体を操ったときは、これが精一杯なんだよ」
「それは、たいへんだったね。それにしても、なんだってこんな真似をしたのよ」
「そ、そりゃ、きみを助けたくて。余計な真似だったらごめん」
慧は何も言わずに夕を見つめた。
相変わらず、むかつくほどそそられる。
彼女はどうにか衝動を抑えると、夕の胸元をこづいた。
「え?」と、夕。
警官や駅員が近づいてくる。
「もう一走りよ。捕まったら退学だよ」
慧はそういうと隣駅に向かって駆け出した。
「ちょっと!待ってよ!」
夕がひいひいいいながら、あとを追ってきた。
☆☆☆☆☆
東雲昌次郎は右腕にはめた三つ目の腕時計を確認した。
午後六時十六分、時間通りだ。
町は夕暮れに沈んでいる。さきほどまで公園で遊んでいた子供たちは、いつの間にかいなくなっていた。風はなく、無人のブランコは時が止まったかのように静止していた。ジャングルジムと滑り台、登り棒の合わさった複合遊具のてっぺんで、ゴリラのようなキャラクターが無機質な笑みを浮かべている。
坂の下から人影が近づいてきた。手にはふもとの鶴亀とかいう小さなスーパーの袋をぶらさげている。
昌次郎にはすぐわかった。
愛しの君だ。
あの特徴ある足取りは間違いようがない。
これからはじまる彼とのひとときを思うと、口元が自然とほころんでしまう。
思えばずいぶんと時間がかかった。
ネット動画で彼を発見し、プロフィールにあったわずかな手がかりから、学校を突き止めるまでに三か月、さらに彼を特定するのに二週間。奇妙な女が邪魔をしたおかげで、いったん仕切りなおすほかなく。女に注意しながら、彼の家を特定するまでに三週間だ。待たされた分、彼の情熱はいっそう膨らんでいる。
少年が近づいてきた。軽やかな足取りだ。
昌次郎は眉を寄せた。
おかしい。たしかにあの少年のはずなのだが、足取りがさきほどまでと異なっている。他人の空似か?
少年とはもう二十メートルと離れていない。
夕日を背に、少年の影が長く伸びる。
いや、たしかにあの少年だ。しかしどうしたことか。ほんの十数秒の間に、あれほどあった魅力が消えている。
少年の顔は影の具合でよく見えないが、笑っているようにもみえる。
少年が彼に向かって走りはじめた。
笑っている。
歯茎をむき出しにして笑っている。
心底楽しそうだ。
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